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道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市中央区の繁華街および町名。または、同所の北を流れる道頓堀川の略称。 一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。(なお、かつては「どとんぼり」、「どとんほり」と呼ばれていたとする出典もある〔牧村史陽・編『大阪ことば事典』講談社(講談社文庫)1998年、495頁。〕。) == 歴史 == 幸田成友によると、1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津川へ注ぐ堀川の開削が開始され、久宝寺(摂津国住吉郡平野郷)の安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。しかし、大坂の陣で道頓が戦死したため、従弟の九兵衛(安井道卜(どうぼく))や安藤藤次(平野藤次)らが引き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられたことや功績を鑑み「道頓堀」と命名した。 「大坂濫觴書一件」では、九兵衛(道卜)が合戦後の工事再開の認可を受けた際、徳川氏からの人夫提供の誘いを断り、久宝寺から百姓を呼び寄せ、自らの手で工事を完成させたとあり、安井家の富豪のほど、また当時の町人の心意気を偲ばせる記述となっている。この開堀では両岸の開発も行われ、八町が建設された。「九郎右衛門町」、「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝にあったものの名に因んだものである。 道卜は振興策として、南船場の塩町通付近に形成されていた芝居町を道頓堀川の南岸に移転させた。当初は道頓堀通の北側に川を背にして芝居小屋が立ち、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎が行われていたが、前者は1629年(寛永6年)に、後者は1652年(慶安5年)に禁止された。1653年(承応2年)に芝居名代5株が公認され、興行権免許の印として櫓を正面に掲げた劇場が道頓堀通の南側に立つようになり、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。 1707年(宝永4年)10月の宝永地震および1854年(嘉永7年)12月の安政南海地震では、大阪湾に押し寄せた津波が河川を遡上し、道頓堀付近まで水没したと伝えられている〔国をたどりて〜震災復興 歴史に学ぶ(2)忘れられた「大阪水没」(産経ニュース2011年9月30日)2011年10月15日閲覧 〕〔 長尾武(2008): 1854 年安政南海地震津波,大阪への伝播時間と津波遡上高, 『歴史地震』 第23号, 63-79.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「道頓堀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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