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達巳典子 : ウィキペディア日本語版
辰巳典子[たつみ のりこ]

辰巳 典子(たつみ のりこ、1947年10月12日 - )は、日本の女優である〔キネ旬, p.425.〕〔''辰巳典子''、''jlogos.com'', エア、2014年8月1日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年8月1日閲覧。〕〔''辰巳典子''・''辰己典子''・''達見典子''・''辰見典子''東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月1日閲覧。〕〔''辰巳典子''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月1日閲覧。〕〔''辰巳典子''日本映画製作者連盟、2014年8月1日閲覧。〕〔''辰巳典子''KINENOTE, 2014年8月1日閲覧。〕〔''辰巳典子''・''達見典子''日本映画データベース、2014年8月1日閲覧。〕〔''Noriko Tatsumi''インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月1日閲覧。〕。出生名は平賀 千代(ひらが ちよ)〔〔〔。初期には達見 典子辰見 典子辰巳 のり子、あるいは辰己 典子と表記されることもあった〔〔。高校を中退したハイティーンのころに上京してヌードモデルになり、1967年(昭和42年)に女優に転身、成人映画界のスター女優となり、わずかの間に100本近い作品に出演した〔〔〔〔。1971年(昭和46年)に照明助手の鮎川欽一郎と結婚・引退、本名は鮎川 千代(あゆかわ ちよ)になる〔〔〔。大和屋竺監督の『荒野のダッチワイフ』(1967年)、石井輝男監督の『徳川女系図』(1968年)、井田探監督の『女浮世風呂』(1968年)、武智鉄二監督の『』(1968年)等の出演で知られ〔〔、寺山修司が『さかさま英雄伝』のリルケの項で辰巳に触れたことでも知られる〔寺山, p.176.〕。
== 人物・来歴 ==

=== 成人映画スターの時代 ===
1947年(昭和22年)10月12日、大阪府大阪市阿倍野区に生まれる〔〔〔。
1963年(昭和38年)4月、大阪府立今宮高等学校に進学するも、1964年(昭和39年)、二年生のときに中途退学する〔〔。電話交換手の仕事をしていたが、翌1965年(昭和40年)には東京に移り、友人が成人映画の女優をしていた関わりでヌードモデルの職を得る〔。『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)には、同年、『泥だらけの制服』で映画界にデビューした旨の記述があるが〔〔、同年には同名の作品の公開はなく〔1965年 公開作品一覧 509作品 、日本映画データベース、2014年8月1日閲覧。〕、同作は新藤孝衛の監督作であり、公開は1967年(昭和42年)3月7日、辰巳が満19歳のときである〔〔。同日公開された『女の責め』(監督山本晋也)にも、出演している〔。同作に先行して、1967年1月29日公開の『ダブル処女』(監督岸信太郎三樹英樹)、同年2月28日公開の『禁断の情事』(監督小川欽也)、同年3月公開の『情事の階段』(監督松原次郎)に出演した記録がある〔〔〔年鑑, p.320.〕。映倫(新映倫、現在の映画倫理委員会)審査番号にみる完成時期では、このなかでは『泥だらけの制服』とくらべても『禁断の情事』がもっとも早い時期の作品である〔〔。俳優の久保新二の回想によれば、辰巳のデビュー作は火鳥こずえの首から下の吹き替え(ボディダブル)であったといい〔その男、エロにつき… アデユ~ 久保新二伝 久保新二、2011年5月5日付、2014年8月1日閲覧。〕、映画監督渡辺護の回想によれば、辰巳が最初に現れたときには17歳であったという〔日録1980年7月28日 渡辺護、2013年2月5日付、2014年8月1日閲覧。〕。辰巳は『白日夢』(1964年)以降の1967年のデビューであり、『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者を挙げているが、辰巳についての言及はない〔田中, p.85-86.〕。久保新二よれば、当時、辰巳は、愛染恭子火鳥こずえらとともに、杉並区高円寺に所在した火石プロ(代表・火石利男)に所属していたという〔ピンク映画メモリー 、久保新二、2012年9月15日付、2014年8月1日閲覧。〕。
独立系プロダクションの作品のほか、1968年(昭和43年)には、日本のメジャー映画会社初の成人指定映画といわれる石井輝男監督の東映ポルノ『徳川女系図』に出演して「おしの」を演じた。同作には辰巳のほか、内田高子谷ナオミ、火鳥こずえ、祝真理ら、いわゆる独立系のピンク映画女優が多数出演しており、興行的に大成功を収めた〔〔〔〔〔〔〔キネ旬, p.110.〕。辰巳は続けて、同年6月28日に公開された石井輝男監督による『温泉あんま芸者』にも出演した〔〔〔〔。これに触発された日活も〔、当時はまだロマンポルノ(1971年 - 1988年)を開始していなかったが、児井英生がプロデュースした『女浮世風呂』(監督井田探、同年7月10日公開)や『ある色魔の告白 色欲の果て』(監督江崎実生、同年8月14日公開)、『秘帳 女浮世草紙』(監督井田探、1968年10月19日公開)といった作品に辰巳を出演させた〔〔〔〔〔。『女浮世風呂』には、辰巳のほか、林美樹美矢かほる、火鳥こずえ、清水世津大月麗子、谷ナオミ、乱孝寿、内田高子ら、『ある色魔の告白 色欲の果て』には美矢かほる、乱孝寿、林美樹、火鳥こずえ、高月絢子、清水世津、橘桂子、大月麗子、高鳥和子真湖道代ら、『秘帳 女浮世草紙』には火鳥こずえ、林美樹、真湖道代、乱孝寿、高月絢子ら、独立系のピンク映画女優が多数出演した〔, 2014年8月1日閲覧。〕〔, 2014年8月1日閲覧。〕〔, 2014年8月1日閲覧。〕。同年9月7日に大映が配給して公開された『浮世絵残酷物語』(監督武智鉄二)にも出演しており、東映・日活・大映の大手各社への出演を果たした〔〔〔〔〔。同年当時の週刊誌には「映画会社を股にかけ、目下売り出し中の辰巳典子は、まだ二十歳の若さ。体あたりの演技で独特の色気をつくりだしていくのもこれから」と書かれ注目された〔週刊大衆, p.131.〕。寺山修司は『さかさま英雄伝』において、「リルケはピンク映画を観て辰巳典子や杉村久美にあこがれるべきである」と書いた〔。トーマス・ワイサーは武智鉄二監督の『浮世絵残酷物語』(1968年)における辰巳を「すべてのみずみずしい美女たちのなかでも際立っているのは、極めて情熱的な尼を演じる辰巳典子である」と評した〔Weisser, p.445-446.〕。ワイサーは、辰巳の傑作として、関孝二の監督作『売女』(ばいた、1967年)と『エロチック風土記 替え床』(1968年)の2作を挙げている〔Weisser, p.79.〕。
1971年(昭和46年)1月に公開された『新手 女ぜめ裏表』(監督秋山駿、製作・配給葵映画)、『肉奴隷』(監督団鬼六、配給ミリオンフィルム)、『日本恥部物語』(監督渡辺護・山本晋也・小森白、製作東京興映)、『日本夜這風俗史』 (監督向井寛、配給ミリオンフィルム)の4作を最後に〔〔〔〔〔〔、同年、独立系成人映画やテレビ映画の現場で照明助手を務めていた鮎川欽一郎と結婚し、引退した〔〔〔年鑑, p.136-140, 153-157, 168.〕。ただしこの時期の作品記録が掲載されている『映画年鑑 1973』において、独立系の映画作品については監督名以外記載されておらず、この時期の出演者が概して不明である〔。引退後、『日本映画俳優全集・女優編』が発行された1980年(昭和55年)前後までには、東京都世田谷区北沢下北沢駅前で居酒屋「らりぱっぱ」を経営していた〔〔。1976年(昭和51年)10月3日に放映された連続テレビ映画『俺たちの旅』第45回『愛しているから哀しいのです』(監督斎藤光正)に出演し、本名の鮎川 千代の名でクレジットされた〔''鮎川千代''テレビドラマデータベース、2014年8月1日閲覧。〕。2014年(平成26年)3月現在、『日本映画俳優全集・女優編』に記載された所在地に該当する店舗は存在しせず〔〔東京都世田谷区北沢2丁目25番4号 Google ストリートビュー、2014年3月撮影、2014年8月1日閲覧。〕、閉店時期も不明である。以降の消息は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「辰巳典子」の詳細全文を読む



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