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遠山景村[とおやま かげむら] 遠山 景村(とおやま かげむら、建久6年(1195年) - 弘長元年(1261年))は、遠山景朝の長男。弟に景重、景員がいる。 仁治2年(1242年)、木曽川北部の所領を得るために、木曽川左岸の西山戸から右岸の那木に進出。後の苗木城築城へ繋がる。仁治5年(1247年)に、弟景重が明知城を築城、初代城主〔明知遠山家系譜〕となり、景村は広恵寺城を築城〔遠山譜〕する。後、弟景員が苗木城を築城し初代城主〔苗木遠山家系譜〕となる。 広恵寺城の存在は、恵那郡蛭川村および恵那郡福岡町高山地区(いずれも現・中津川市)に親王伝説が残っており、福岡遠山氏〔加藤氏家系譜〕の遠山加藤五郎〔太平記〕の名前が出現する。 「親王伝説」とは、「後醍醐天皇の皇子・宗良親王が広恵寺城に身を潜めるやいなや、近国の武士が蜂起して広恵寺城を囲み攻め、味方は小勢で志気を失い、遠山一雲入道大いに嘆き社殿に向ひ一心に祈った。社殿から二筋の白羽の矢が出て敵の陣中に入り、見る間に忽ち天は墨を流したようにかき曇り、雷鳴と共に車軸を流すような大雨となった。敵兵は浮き足立ってきたと見えたので、「それ天王の加護なり。者共進め。」と下知し、短兵急をきって出たので、敵兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ、皇子は深く飛天王を崇敬し総社祇園午頭天王の八字を大書きし扁額を奉られた。」ことである。 == 脚注 ==
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠山景村」の詳細全文を読む
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