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遠藤 幸吉(えんどう こうきち、1926年3月4日 - )は、山形県東村山郡金井村(現・山形市)出身の、元柔道家(四段)、プロレスラーである。力道山と共に日本プロレスを創設した人物。 == 来歴 == 憧れの史上最強の柔道家木村政彦の側にいたいと思い、国際柔道協会(プロ柔道)に参戦したがこの団体が崩壊、1951年、来日したボビー・ブランズらとともにプロレスのトレーニングを積む。その輪の中に力道山がいた。同年11月22日、仙台市でハロルド坂田とエキシビション・マッチを行っていて、これが遠藤のデビュー戦とされる。 1952年、「コウ東郷」を名乗り、大山倍達(マス東郷)とともにアメリカ遠征。現地でグレート東郷(カズ東郷)と合流し、「東郷3兄弟」として各地を転戦。この時期の遠藤が劇画「空手バカ一代」などに登場する。 1953年に力道山が創設した日本プロレスに合流。披露パーティーでは力道山とエキシビション・マッチを行っている。 その後は力道山のタッグ・パートナーとして活躍し、1954年8月には太平洋タッグ王座を獲得した。1956年にはシャープ兄弟を破り、世界タッグ選手権を獲得している。 力道山が世を去った後の1963年からは、吉村道明、豊登、芳の里とともに日本プロレスの経営を担った(経理担当)。現役生活は1966年に終えている。芳の里と並んで、腐敗した経営陣の一角として攻撃されたこともある。 日本プロレス崩壊後はアントニオ猪木率いる新日本プロレスのプロモーターとして活動したほか、日本プロレス・新日本プロレスの中継においては1970年代中期まで解説者をつとめる。「雌雄を決する」を「オスメスを決する」と発言するなど、いわゆる「迷解説者」としての逸話が多い。猪木VSドリー・ファンク・ジュニア戦での「バランスがオフになる」はプロレス実況史上有数の意味不明発言として伝説になっている。 ステーキ等、肉料理の脂身が好物で、ミスター珍が「脂身ばかり食べていた」と証言している。そのせいか、解説者時代にはとてもドロップキックの名手だったとは思えない肥満体になっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「遠藤幸吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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