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遠藤慶隆 : ウィキペディア日本語版
遠藤慶隆[えんどう よしたか]

遠藤 慶隆(えんどう よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将大名美濃国国人郡上郡八幡城主。美濃八幡藩初代藩主。三上藩遠藤家初代。天正(1573年 - 1592年)初年頃は盛枝と署名している。
== 生涯 ==

=== 美濃斎藤氏家臣 ===
遠藤盛数の長男として木越城に生まれる〔。美濃遠藤氏千葉氏の一族である東氏の庶流であるが、慶隆の父盛数は、舅にあたる宗家当主東常慶を倒して東氏を滅ぼし、八幡城主となった。盛数は美濃の戦国大名斎藤氏に恭順し、斎藤義龍斎藤龍興の下で美濃に侵攻した尾張国織田信長と戦うが、永禄5年(1562年)に死去し、慶隆は13歳で家督を継ぐことになった。幼少の当主を案じた慶隆の老臣達は、盛数の未亡人(慶隆の母)を斎藤氏重臣で関城主の長井道利と再婚させ、道利が慶隆の後見人となった。その後、慶隆はやはり斎藤氏重臣で北方城主である安藤守就の娘を妻としている〔。
永禄7年(1564年)、慶隆は弟慶胤と共に井ノ口(現岐阜市)の長井邸に居住していたが、竹中重治稲葉山城を奪取したため、山県郡深瀬郷に避難した。その機に乗じて木越城(現郡上市大和町)主の遠藤胤俊(慶隆の従兄弟)が八幡城を奪取し、慶隆兄弟の暗殺を企てたが、慶隆は粥川甚右衛門と餌取六右衛門に救出されて、苅安の鶴尾山城(現郡上市美並町)に入った。翌永禄8年(1564年)に道利の援軍を得ると、胤俊が和睦を申し出て、慶隆は八幡城を返還され城主に復帰した。
永禄10年(1567年)9月、稲葉山城が落ち、斎藤氏が滅亡すると、郡上では鷲見弥平治と別府四郎が謀反し、市島の最勝寺に兵を集めて八幡城を落とそうとしたが、事前に察知した慶隆はこれを攻め、首謀者は飛騨国に敗走した。同年同月ごろと見られるが、慶隆は信長に属し、郡上郡内の本領を安堵されている〔。なお、長井道利が稲葉山城落城の際に戦死したため〔通説では元亀2年(1571年)8月に摂津白井河原の戦いで戦死したとされる。〕、その妻だった慶隆の母は教如に帰依し、照用院釈尼友順の法名を得て、郡上の戸谷に草庵を営み前夫盛数の菩提を弔ったという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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