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鍋倉城(なべくらじょう)は岩手県遠野市に存在した日本の城。別称 遠野城、横田城。 鍋倉山に本丸〔地図閲覧サービス(国土地理院) 〕を築き、猿ヶ石川と早瀬川を外堀、来内川を内濠とした。 寛永4年(1627年)八戸直義が横田城を修理して鍋倉城と改め、最高所を本丸としその南に二の丸、東に三の丸が配された。 == 歴史・沿革 == 鎌倉時代初期より阿曽沼氏の本拠であった横田城は洪水の被害に遭いやすかったため、天正年間のはじめの頃、阿曽沼広郷が横田村(松崎町)の横田城から鍋倉山に新城を築いて移り、旧居城の名前を継承して横田城と称した。一日市町と多賀里にあった六日町を移転させて城下の町屋の中心にしたといわれる。 天正18年(1590年)、小田原不参によって阿曽沼氏は領主権を没収され南部氏配下となり、天正20年(1592年)、「諸城破却令」には「横田 破 信直抱 代官 九戸 左馬助」とあったが、慶長5年(1600年)の阿曽沼一族内訌によって、遠野は南部氏の領するところとなり、破却はまぬがれた。 阿曽沼氏の旧領の内、横田城代として内陸部を上野・平清水両氏を知行させ、海岸地帯を大槌氏、田瀬を江刺氏に分知させた。城代の平清水氏は元和元年(1615年)刑死し、ついで、上野氏が同7年に病死すると、遠野奉行の毛馬内三左衛門を横田城代として赴任させたが、治安の乱れが続いたため、南部利直は、寛永4年(1627年)、治安維持と仙台領との境目警護を理由に、八戸直義を八戸根城から横田城へ陸奥国代として領内の独自の裁量権を認められて入部させて、横田城を修復して鍋倉城と改め、当城を領内統治の拠点とした。 城下町は横田村地内に形成され、通称「遠野城下」と呼ばれたが、一国一城令以降は城ではなく館の呼称が正式であり、「要害屋敷 閉伊郡横田村 遠野」〔「郷村古実見聞記」文化元年〕とされていた。 明治2年(1872年)に廃城となった。現在は、鍋倉公園として整備されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鍋倉城 (陸奥国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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