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郭 興(かく こう 1330年 - 1383年)は、元末から明初の軍人。濠(安徽省鳳陽県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。弟の郭英も朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。 ==生涯== 1352年、郭子興が挙兵すると、これに参加した。朱元璋に出会い、彼に心服するようになる。軍中では朱元璋の宿衛を守った。 1353年、定遠攻略に参加した24将の1人。功績を上げて管軍総管となり、さらに統軍元帥に進んだ。常州攻略に参加した。寧国、江陰、宜興、婺州、安慶、衢州を攻略した。 1363年、鄱陽湖の戦いに参加した。陳友諒軍は巨艦を連ねて、朱元璋軍との戦いを有利に進めていた。これを打開するために、郭興は火攻めを提案する。火攻めにより形勢は逆転し、陳友諒は戦死して、朱元璋軍の勝利に終わった。武昌攻略に参加し、敵兵を多く斬り、鷹揚衛指揮使となった。徐達に従って廬州を攻略し、安豊を救援して張士誠軍を破った。襄陽、衡、澧を攻略した。高郵、淮安を攻略した。湖州、平江を攻略した。張士誠を滅ぼした後、鎮国将軍、大都督府僉事となった。 1368年(洪武元年)、徐達に従い、汴梁を攻略し、河南を守った。馮勝が陝州を攻略した後、潼関を守備する軍を出してほしいと頼んだ。徐達は「郭興にしか務まらぬ」と言って、郭興に潼関を守らせた。潼関周辺には哈麻図、李思斉、張思道らが東方進出を狙って、奉元にて奪取の機会を窺っていた。王左丞が攻めてきたが、これを撃退する。徐達に従い、奉元を攻めて、これを攻略する。鞏昌の守備に移り、辺境地域を安定させた。 1370年(洪武3年)、陝西行都督府僉事となる。冬、功臣の叙勲が行われた。郭興は規律を守らなかったため、鞏昌侯に止められ、食禄1千5百石を賜った。 1371年(洪武4年)、夏国討伐に向かい、漢州、成都を攻略する。 1373年(洪武6年)、徐達に従い、北平を守備する。陳徳とともに元軍を答刺海口にて破る。 1378年(洪武11年)、臨清で練兵を行った。 1383年(洪武16年)、北方の辺境を巡った。召還された後、53歳で亡くなった。陝国公を贈られ、宣武と諡された。 1390年(洪武23年)、李善長の獄に追座して除爵された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「郭興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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