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都賀靜子 : ウィキペディア日本語版
都賀静子[つが しずこ]

都賀 靜子(つが しずこ、1912年5月18日 - 没年不詳)は、日本の女優、元子役である〔''都賀静子''、''jlogos.com'', エア、2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀静子''日本映画データベース、2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀静子''、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀静子''日本映画製作者連盟、2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀静子''KINENOTE, 2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀静子''日活データベース、2013年4月23日閲覧。〕〔''都賀靜子''、''都賀静子''東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月23日閲覧。〕。新漢字表記都賀 静子〔〔〔〔〔〔〔、本名須永 靜子(すなが しずこ)〔〔。
== 人物・来歴 ==
1912年明治45年)5月18日東京府東京市本郷区駒込坂下町(現在の東京都文京区千駄木2丁目あるいは3丁目)に生まれる〔〔。父は俳優の都賀清司(1885年 - 1946年〔石割, p.400.〕)、弟はのちに子役となる都賀一司である〔。
幼少時から都賀清司とともに映画や舞台に子役として出演した〔。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災のため、関西に移り、1924年(大正13年)には牧野省三率いるマキノ映画製作所の等持院撮影所に入社した〔。同社は、1924年(大正13年)7月に東亜キネマに吸収合併され、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となり、都賀は、東亜キネマの甲陽撮影所に異動した〔〔。1925年(大正14年)6月には、牧野が再度独立、御室撮影所を開いてマキノ・プロダクションを設立、都賀は、東亜キネマからマキノへ移籍した〔〔〔。満14歳となった1926年(大正15年)6月18日に公開された『祇園情話 春雨草紙 千代香の巻』(監督金森万象)で主演を果たす〔〔〔。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、都賀は、マキノ智子松浦築枝岡島艶子大林梅子桜木梅子生野初子河上君栄三保松子泉清子らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 立命館大学、2013年4月23日閲覧。〕。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1931年(昭和6年)3月27日に公開された『塩原多助』(監督吉野二郎)を最後に退社している〔〔。
同年、東活映画に入社したが、同社は同年10月に解散している〔〔〔。同年、高村正次らによる宝塚キネマ興行に移籍したが、同社も解散に追い込まれ、1934年(昭和9年)1月9日に公開された『空の潜航艇』を最後に、満21歳で映画界を引退したとされる〔〔〔。しかしながら、1935年(昭和10年)1月10日に公開された日活京都撮影所作品、『維新三剣士』(監督辻吉朗)に出演した記録が残っている〔。
第二次世界大戦後、東映京都撮影所を中心に、映画界に復帰している〔〔〔〔。満47歳となった1959年(昭和34年)7月14日に公開された『怪談一つ目地蔵』(監督深田金之助)が、記録に見える戦後最初のクレジットである〔〔〔〔。1966年(昭和41年)4月には、プロダクション鷹が製作した成人映画女体標本』(監督木俣堯喬)に、新派和歌浦糸子(1897年 - 1975年)、岡島艶子(1909年 - 1989年)らヴェテラン女優とともに出演している〔〔〔女体標本 、日本映画データベース、2013年4月24日閲覧。〕。満55歳となった1968年(昭和43年)9月3日に公開された『いかさま博奕』(監督小沢茂弘)に出演したのが、記録に残る最後の作品である〔〔〔〔。以降の消息は知られていない。没年不詳

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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