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野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - 2009年7月30日)は、広島県呉市出身のプロ野球選手(投手)・監督・コーチ。 == 来歴・人物 == 旧制呉港中学校時代の1939年、藤村隆男・柚木進の控え投手として春選抜大会出場(試合出場はなし)。 専修大学を経て、戦後プロ野球が再開された1946年、阪神タイガースに入団。戦後すぐの選手不足で、投手専任は野崎ただ一人だった。ドロップを武器に、主力投手として1948年と1950年に二桁勝利(48年・12勝、50年10勝)を挙げた。しかし肩を痛め、1951年東急フライヤーズ、1952年地元球団の広島カープに移籍したが、活躍は出来なかった。1953年に現役引退。 引退後は広島投手コーチ・監督代行・二軍監督、球団常務、球団代表など、途中空白期を挟みながら1991年まで広島発展に尽力した。 特に1975年シーズンは、監督のジョー・ルーツが開幕から僅か15試合目(4月27日対阪神ダブルヘッダー第1試合)で指揮権放棄しその後辞任したため、4月27日第2試合から5月3日に古葉竹識コーチが後任監督に昇格するまでの4試合(3勝1敗)で監督代行を務め、古葉体制発足以後のチームの支えとなるなど球団創設初優勝に大きな役割を果たした。 広島黄金期の形成に多大な役割を果たした木庭教が、スカウトとして球団に採用される切っ掛けとなったのは、木庭自らが「これからは選手を育てていかなければいけない時代。こういう有望な選手を獲ってはいかがか」という選手のリストを綴った手紙を自ら広島カープ球団に送ったのが発端。この手紙を読んだ野崎が「世間にゃこんなに詳しい人がおるんですな。一度呼んでみちゃどうでしょう」とスカウトだった西野襄に見せてから。プロ野球選手としての経験がない素人だった木庭は、この手紙を切っ掛けに採用された〔(参考 「裏方 物言わぬ主役たち プロ野球職人伝説」木村公一・著)。〕 球団創成期から在籍する選手出身者としては、備前喜夫らと共に、最も長く広島に関わった人物の一人である。 2009年7月30日0時15分、死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野崎泰一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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