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野戦鉄道提理部(やせんてつどうていりぶ)は、日露戦争戦中から戦後にかけて満州で鉄道を運営していた組織。大日本帝国陸軍の一部署。 日露戦争中の1904年に設置され、戦中はロシア側より接収した東清鉄道を改修して野戦鉄道に転用、軍事輸送に従事した。戦争終結後はポーツマス条約によってロシア側から譲渡された東清鉄道南部線(のちの南満州鉄道連京線)や陸軍の敷設した安奉軽便線(のちの南満州鉄道安奉線)・新奉線(のちの満州国有鉄道奉山線の一部)の営業を行い、1907年に南満州鉄道に業務移譲されるまでの4年間存続した。 == 歴史 == === 前史 === 1894年から翌年にかけての日清戦争は、日本の勝利に終わり、講和条件として日本は賠償金とともに遼東半島の租借を要求した。 しかし日本に中国権益が分割されることに反対し、また北京に対面する遼東半島が日本の影響下に入ることは国益を損失するものとするロシアは、フランス・ドイツと共に遼東半島の返還を日本に要求した(三国干渉)。 当時ロシアは、不凍港を求めての南下政策を採用すると同時に、満州における権益確保を外交政策としていた。そこで1896年に三国干渉の見返りを求めて李鴻章と交渉、露清密約を締結して満州北部の鉄道敷設権を獲得した。これにより工事が難航していたシベリア鉄道を満州内に通過させることが可能となった。また1898年には遼東半島方面への鉄道敷設権も獲得、哈爾浜を中心としたT字型の鉄道網整備が計画された。これらの路線は1903年7月に開通、「東清鉄道」と称された。 当時の国力の差より、三国干渉を受け入れざるを得なくなった日本は、ロシアを仮想敵国とし軍備増強を推進した。またロシアが満州を占領し、さらに朝鮮半島への進出を窺う動きを見せるなど、日本の権益に脅威となる行動を取ったため、日露両国の対立は深刻化することとなった。 日本側は当初外交交渉による解決を模索したが、朝鮮半島の一部中立化など、日本独立の脅威となる提案をロシア側が示したことから決裂。全面戦争を決断し、1904年2月6日に国交断絶をロシア政府に通告したのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野戦鉄道提理部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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