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野本基員 : ウィキペディア日本語版
野本基員[のもと もとかず]
野本 基員(のもと もとかず、保延6年(1140年) - 貞永元年9月18日1232年10月3日)〔黒板勝美、国史大系編修会(編)『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第二篇』(吉川弘文館)P.324(中宮亮高房男時長孫の章)。〕)は、平安時代から鎌倉時代にかけての武士野本氏の家祖とされる人物である。
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)には、基員は藤原鎌足の末裔として記されている(具体的には、中臣(藤原)鎌足 - 不比等 - 房前藤原北家の始祖)- 魚名 - 鷲取 - 藤嗣 - 高房 - 時長 - 利仁 - (斎藤)叙用 - 吉信 - 伊博 - 為延 - 為頼 - (竹田)頼基 - (片田)基親 - (野本斎藤左衛門)基員という流れ)〔。
基員は鎌倉時代に御家人として源頼朝の信頼をうけ、武蔵国比企郡野本(現在の埼玉県東松山市下野本)の地に居住し野本左衛門尉を称した。『吾妻鏡』には、基員が建久4年(1193年)に頼朝の前で息子の元服式〔『吾妻鏡』建久4年10月10日条に「建久四年十月大十日癸夘。野本齋藤左衛門大夫尉基員子息小童。於幕府首服。進御鎧以下。自將軍家。又賜重寳等云々。」と、野本基員の息子が源頼朝烏帽子親として元服した旨の記述が見られる(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.164 表1))。元服にあたっては、それまでの童名幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名通称名)と実名)が与えられるが、その際に烏帽子親の実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多かった(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)、田中大喜 「総論 中世前期下野足利氏論」(田中、2013年、p.19)、紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」(『中央史学』二、1979年、p.10)など、→「元服」の項も参照)。『尊卑分脈』の系図を見ると基員の息子は季員(すえかず)と頼朝より一字を拝領した形跡のない名前となっているが、代わりに同系図で季員の息子(すなわち基員の孫)に位置する頼員(よりかず)が頼朝より一字を受けた人物と考えられる。またこの当時基員は54歳であるので、元服を迎える近親者を息子とするのか孫とするのかというところも考えるべき点である。従って『吾妻鏡』『尊卑分脈』のどちらに誤りがあるかは分からないものの、基員の近親者が頼朝を烏帽子親に元服したことは間違いなさそうである。〕を行い祝いに宝を貰ったり、建久6年(1195年)幕府の命により相模の大山阿夫利神社へ頼朝の代参をつとめた記載がある。『曽我物語』には、「野本の人々」が建久4年(1193年)に源頼朝の北関東の狩猟の際に、武蔵国大蔵宿で頼朝の警固を行った記載がある。また同時期の建永元年(1206年)6月16日付けの後鳥羽上皇院宣によると、基員は越前国河口荘の地頭職を停止させられており、越前国にも所領を持っていたことがわかる。後に、基員の実子である範員に河口荘は継承されている。
また、野本の地は、延喜15年(915年)、鎮守府将軍藤原利仁が館を構えたと言われており、現在も残る館跡のすぐ隣に前方後円墳があり、ここに利仁神社が建立されていることから、藤原利仁の末裔でもある基員が、この地で利仁をまつり生活していたものと推測される。しかし、この古墳の築造時期は、5世紀末~6世紀初頭と考えられており、藤原利仁の時代よりもはるかに昔のものであり、真の埋葬者は不明である。
基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子である時員を養子としている。この野本時員は、『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国守護(1224年 - 1230年)にも就任している。時員の弟(同じく基員の養子)である時基(ときもと)は、押垂を名乗り押垂氏の祖となった。押垂は、現在の埼玉県東松山市の野本の隣の地名である。
野本氏は、藤原氏の末裔であり武蔵国の地名に由来するが、13世紀後半には武蔵国に関する記録からは忽然と消えてしまう。しかし、五味文彦は、『吾妻鏡』における前述の野本斎藤基員の子の元服記事(建久4年(1193年))に着目し、時の権力者北条氏以外の御家人で元服記事が『吾妻鏡』に採用されているのは、『吾妻鏡』の編纂された時期に、野本氏が鎌倉幕府の中枢にいた『吾妻鏡』の編纂者と特別な関係にあったことを推定している〔五味文彦「吾妻鏡の筆法」『増補 吾妻鏡の方法』(吉川弘文館、2000年)p308~9〕。
== 参考文献 ==
; 文献
* 落合義明「利仁流藤原氏と武蔵国」『歴史評論 NO.727』(校倉書房、2010年(平成22年))
* 山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)) ISBN 978-4-7842-1620-8
; 史料
* 『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(『尊卑分脈』)
* 『吾妻鏡
* 『曽我物語

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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