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野村 胡堂(のむら こどう、1882年10月15日 - 1963年4月14日)は、日本の小説家・作家・音楽評論家。音楽評論家としての筆名は野村あらえびす。『銭形平次 捕物控』の作者として知られる。本名:野村 長一(のむら おさかず)、娘は作家の松田瓊子。 == 経歴 == *1882年 - 岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれる。彦部尋常小学校、紫波高等小学校に学ぶ。高等小学校のときに自宅が全焼するという災難にも見舞われた。小学校時代には『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読み、特に『水滸伝』の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清は、のちに銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったという。 *1896年 - 盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同窓生には、生涯付き合いが続く金田一京助がいた。金田一は胡堂の葬儀委員長を務めた。また、下級生に石川啄木が在籍しており、ともに、校友会雑誌の編集を手がける。胡堂は啄木に俳句・短歌の手ほどきをしたと言われている。 *1907年 - 第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、『報知新聞』を発行する報知社に入社して政治部に配属された。同紙に人物評論欄「人類館」を連載し、このとき「胡堂」を号とした。また、「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆した。社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。 *1931年 - 文藝春秋発行の『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表、『銭形平次 捕物控』の第1作目であった。これ以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。 *1949年 - 捕物作家クラブが結成され、初代会長に就任する。 *1956年 - 自らの著書を寄贈して紫波町彦部に胡堂文庫(現在は紫波町中央公民館図書室として紫波町が運営)を設立、故郷の教育に貢献している。1963年には、紫波町に、銭形記念図書館も設け、蔵書の一部を寄贈している。 *1963年2月 - 死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難になった学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。 *1963年4月14日 - 肺炎のため死去。享年80。1970年に日本作家クラブによって銭形平次の記念碑が神田明神境内に建立された。 *生前は武鑑やレコードの収集家として著名である。約40年間、1万3000枚ものレコードを、堅牢な収納庫で保管していた。1956年には、レコード1万枚を東京都に寄贈し、1963年には、武鑑600冊を含む古典籍960点余りを東京大学史料編纂所に寄贈した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村胡堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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