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野村 六彦(のむら むつひこ、1940年2月10日 - )は、広島県広島市出身の元日本代表サッカー選手。元日立(現柏レイソル)所属。日本サッカーリーグ(JSL)初代得点王。ポジションはFW又はMF。 == 経歴 == === 選手として === 実家は老舗の文具店。袋町小学校を経て〔「私が出会った和の匠 宮本輝紀」『週刊サッカーマガジン』2013年7月16日号、p68、7月23日号、p68〕、国泰寺中学へ進み、サッカーの強かった同校でサッカーを始める〔。宮本輝紀、今西和男らも同中学出身。卒業後は、当時"広島三強"といわれた国泰寺高、広大附属、修道に負けないサッカー部をと強化していた広島舟入高校の校長に誘われ同校に進学。ドリブル力やフェイントなどに秀でた選手として「超高校級」と評判をとった。3年時には主将として今西らと1958年の全国高校サッカー選手権出場し、優秀選手賞を受賞した。 一年浪人後中央大学に進むが実家が倒産、大学4年間は育英資金と学生食堂のアルバイトで苦学し通う。在学中の1962年には、同郷の小城得達、桑原楽之、岡光龍三と共に活躍し、四半世紀振りとなる大学単独チームでの天皇杯獲得に貢献した。決勝の相手は長沼健、平木隆三、川淵三郎、宮本征勝ら日本代表を揃え三連覇を狙った古河電工だった。この年中大は大学選手権など、国内の全タイトルを獲った。1960年大学2年時に全日本に選ばれヨーロッパ遠征に参加。この時、当時の全日本監督高橋英辰とデットマール・クラマーに2ヶ月間寝食を共にして指導を受けた。その後、全日本では、川淵、釜本らと共にソビエト連邦への強化遠征に参加したほか、日本で開催された日本、ソ連、スウェーデンの3か国による対抗戦にも出場している。 1962年大学卒業時には実業団の多くの強豪チームから声が掛かったが、電機業界の将来性に魅力を感じ日立製作所を選んだ。野村の入社以降、日立は中大出身者が増えた。同サッカー部に入部すると身長165cm・体重64kgと小柄ながら、豊富な運動量でエースストライカーとして君臨。入団3年目だった1965年には創設された日本サッカーリーグ(JSL)の第1回得点王(15得点)に輝いた。 また1967年の豊田織機戦で、1試合4アシストのJSL記録(ギネスブックに現在も残る)を残す。日立は低迷していたが1969年、高橋英辰が監督就任。高橋は野村を軸にチームを構成すればチームの再建は可能、と野村を攻守の切り替え・中盤の繋ぎ役(リンクマン)に抜擢した。新婚で千葉の社宅に住んでいたが、高橋から「そんなところにいてはダメだ」と言われ練習場の近くに引越しをさせられたという。高い戦術眼を生かして、一段低い中盤にポジションを移した野村は攻められれば厚い守りとなり、ボールを奪えば、後方からわき上がるように次々と走り出す「走る日立」の主将・中心選手として活躍、チームを立て直し1972年、日立唯一のリーグ優勝をもたらした。またこの年32歳で日本年間最優秀選手賞にも選ばれた。 この年と翌1973年連続得点王になった松永章にも再三、野村からの好パスが供給された。「身長が足りない」といわれ、一度も代表選手には選ばれなかったが、リンクマン野村はJSLの歴史を見渡しても、相手をかわし正確な長短距離パスを送られる唯一のMFだったとも称された。1974年には兼任コーチとなり、ブラジルのSEパルメイラスにて2か月間の強化合宿に参加。当時ブラジル代表だったエメルソン・レオンらと共に練習し、技術・戦術の指導を受けた。その後、40歳まで現役選手を続けた。尚、1979年から1981年には当時低迷していた母校・中大のコーチも兼任。早野宏史、久米一正、金田喜稔らを指導強化し、1980年の第29回全日本大学サッカー選手権大会で優勝に導いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村六彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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