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野村 徹(のむら とおる、1937年1月1日 - )は日本の野球選手(捕手)・監督。アマチュア野球で活躍した。 == 来歴 == 大阪府立北野高等学校から早稲田大学に進み、頭脳派捕手として活躍した。の早慶六連戦では6戦全てにマスクをかぶり、エース安藤元博の力投を支えリーグ優勝に貢献した。東京六大学リーグ通算59試合出場、179打数40安打、打率.223、0本塁打、16打点。ベストナイン1回。 卒業後は社会人の大昭和製紙でプレーし、引退後監督を務めの第41回都市対抗野球大会でチームを優勝に導く。、大阪大学の特別コーチに就任。弱小のチームを近畿学生リーグ優勝に導き、関西代表決定戦で近畿大学に勝利し、全日本大学野球選手権大会に関西地区第一代表として初めて出場した。その後近大附属高校の監督に招かれ、に春夏連続甲子園出場を果たした。 その後長く高校野球の解説を務めていたが2月に母校・早大の第16代監督に就任。これまでの監督の多くが所属する社業と監督業とを兼務せざるを得なかったが、野村は朝から夜遅くまでグラウンドに立ち続けフルタイムでチームを指導した。成果はいきなりその年の春季リーグ戦で表れ、藤井秀悟・鎌田祐哉の両エースを擁して全10試合無失策という堅い守りを見せて優勝を飾る。からはチーム史上初のリーグ戦4連覇を達成、秋季にはこれもチーム初の10戦全勝優勝を達成した。在任6年で優勝5回、見事にチームの再建を果たし、黄金時代を到来させた。なお、野村は特に就任早々の優勝については上級生たちを指導していた前監督佐藤清のおかげであると語っている。 秋季に應武篤良をコーチに入れ、そのシーズン限りで應武に監督を譲り勇退。日本高野連評議員などを務めた。早大の試合がある日には神宮を訪れている。また、早慶戦を中心に試合中継の解説も務めている。 野球は守備から、という信念のもと、1球の大切さを選手たちに厳しく教え、低迷が続いていた早大野球部を見事に再建した。門下からは藤井・鎌田の他に東辰弥・江尻慎太郎・和田毅・比嘉寿光・鳥谷敬・青木宣親・由田慎太郎・田中浩康らのプロ選手を送り出した。彼らOBからは「1球の大切さ」を野村から学んだということが異口同音に語られる。これは飛田穂洲から受け継がれる早稲田野球の根本の精神であり、野村は飛田から石井連藏を経てこの精神を継承してきたといえる。 なお早大からはの宮本賢・山本一徳まで8年連続でドラフト指名選手が出たが、その最初が野村監督初年度の藤井であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野村徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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