翻訳と辞書
Words near each other
・ 野村昌之
・ 野村昌弘
・ 野村明司
・ 野村明大
・ 野村明弘
・ 野村明日香
・ 野村明雄
・ 野村昭夫
・ 野村昭子
・ 野村晋一
野村望東尼
・ 野村木工所
・ 野村未奈
・ 野村朱鱗洞
・ 野村東太
・ 野村松綱
・ 野村次郎
・ 野村正二郎
・ 野村正人
・ 野村正和


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

野村望東尼 : ウィキペディア日本語版
野村望東尼[のむら もとに]

野村 望東尼(のむら もとに〔野村望東尼 - 美術人名辞典(思文閣コトバンク〕、ぼうとうに〔野村 望東尼(ぼうとうに) 信念曲げず志士たちを感化 - 日本経済新聞朝刊女性面 2013年7月20日〕〔平尾山荘 - 福岡市の文化財(福岡市経済観光文化局文化財保護課)〕)、文化3年9月6日1806年10月17日) - 慶応3年11月6日1867年12月1日))は、幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘(三女)で、幼名は"モト"〔〔。贈正五位
== 生涯 ==
文化3年(1806年)9月6日、筑前国御厩後(現福岡県福岡市中央区赤坂)に生まれる。
幼少時より二川相近二川相近 - コトバンク〕に和歌書道を学んだとされる〔。
文政元年(1818年)、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕え、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚える。
文政5年(1822年)、17歳の頃に20歳年上の福岡藩士郡甚右衛門に嫁ぐものの半年ほどで離縁、生家に戻って和歌・書道などに加えて尊皇思想を学んだ〔。
文政12年(1829年)、24歳で二川塾同門の福岡藩士・野村新三郎貞貫と再婚〔。野村も再婚であるが、その連れ子との関係は良好だった〔。一方で、4人授かった子どもは早世している。
二川相近が病で家塾を閉めると、天保3年(1832年)からは夫と共に大隈言道の門下に入る。
弘化2年(1845年)、連れ子である次男に家督を継がせ夫が隠居すると、福岡南側の山村 (現・福岡市中央区平尾)にあった自分の山荘(平尾山荘)に40歳で隠棲した〔。
安政6年(1859年)、54歳の時に夫が亡くなり、剃髪して受戒〔。
文久元年(1861年)11月、望東尼は福岡を発ち4年ほど前から大坂に滞在していた大隈言道の元を訪ねた。
その後、京都へ赴き、翌2年5月まで滞在したが、この間に島津久光の上洛や寺田屋事件など、騒然とする京都市中の様子を見聞きした〔。また、福岡藩御用達の商人で尊皇攘夷派と交流があった馬場文英と知り合い、次第に政治に強い感心を持つようになった。
その後、福岡へ戻った望東尼は平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照長州藩士・高杉晋作熊本藩士・入江八千兵衛対馬藩士・平田大江、福岡藩士・加藤司書平野国臣中村円太月形洗蔵早川養敬などがいる。
慶応元年(1865年)6月、福岡藩内の尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫で福岡藩士の野村助作(夫と前妻の孫)と共に自宅謹慎を命じられ、10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流刑となった〔。(乙丑の獄)
翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われた。その後病に倒れた晋作の最期を看取る事となり、晋作が「おもしろき 事もなき世に おもしろく」と詠むと、望東尼が続けて「住みなすものは 心なりけり」と詠んだ。
望東尼はその後も毛利家から二人扶持が与えられ厚遇されるが、薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟り 、望東尼は体調を崩し、慶応3年(1867年)11月、三田尻(現・山口県防府市の古称)で62歳で死去した〔。
辞世の句は「雲水の ながれまとひて花の穂の 初雪とわれふりて消ゆなり」
山口県防府市の桑山墓地と福岡県福岡市博多区の明光寺に墓がある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「野村望東尼」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.