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野澤 節子(のざわ せつこ、1920年(大正9年)3月23日 - 1995年(平成7年)4月9日)は日本の俳人。 ==略歴== 神奈川県横浜市生まれ、父龍太郎、母こづゑの長女として生まれる。 1932年(昭和7年)にフェリス和英女学校に入学するも、その翌年に脊椎カリエスを発病したため、中退。この病気は後の彼女の人生を大きく左右することとなる。病に臥した彼女は、哲学書を初めとした書物を濫読することになり、その中に俳句の出会いとなる松尾芭蕉の『芭蕉七部集』があった。その後、彼女が一生涯慕うことになる大野林火の『現代の俳句』に出会い、大きく人生を変えていった。 1909年には臼田亜浪主宰の「石楠」(しゃくなげ)に入会するが、それも雑詠欄の撰者が林火だったからであり、野澤二三子という号で投稿を行った。「石楠」は第二次世界大戦の影響で休刊するが、戦後の1946年(昭和21年)、林火が俳誌「濱」を創刊したことで、すぐに投句を始める。その翌年には第一回の賞を受賞したことで同誌の同人となった。 1955年には処女句集『未明音』を刊行。同年に第四回現代俳句協会賞を受賞した。1957年には宿痾であった脊椎カリエスが完治した。これを機に生け花も習うことになり、華道の先生として自立を果たし、また度々旅行にも出ることになる。その後も最大の理解者であった父の死や、師匠と慕い続けた林火の死という苦難を乗り越えつつ、数多くの句集を生み出し、また闘病記、旅行記や女性の俳句普及のために尽力し、手解き本なども執筆した。1971年には句集『鳳蝶』(牧羊社)にて第22回読売文学賞を受賞した。 1971年、「蘭」を創刊。編集長を務めた和田耕三郎などを育てる。 1995年(平成7年)4月9日、没。享年75。その翌年、遺作である句集『駿河蘭』(本阿弥書店)が刊行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野澤節子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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