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野田グループ : ウィキペディア日本語版
花斉会[かせいかい]

花斉会(かせいかい)は、民主党グループ。通称、野田グループ
== 概要 ==
元々は1993年(平成5年)に松下政経塾出身の国会議員で結成された松下政経塾立志会を源流としている。これは55年体制の崩壊に伴い、松下政経塾出身者での保守系新党を構想したものであった。
しかしながら、日本新党新生党新党さきがけ新進党と新しい保守系新党が次々に結成されたこと、および、小選挙区制の下で松下政経塾出身者が自由民主党、新進党、旧民主党とに分かれ始めたことなどから根本的に構想は不可能な状態に立ち至った。
1996年(平成8年)に志士の会として再始動したものの、野党に分かれた松下政経塾出身者の結集は思うように行かず、小選挙区比例代表並立制が初めて施行された同年の第41回衆議院議員総選挙野田佳彦自身が惜敗したため、その後は第1期生の野田を中心とする勉強会として継続してきた。
民主党内での志士の会は、2002年(平成14年)に野田が代表選に出馬した前後に改めて結成されたものであり、2006年(平成18年)に花斉会と名を変えて拡大され、現在に至っている。
花斉会という名称は、「百花斉放」から取られた。皆が花を咲かせるようにという願いを込めて代表の野田自身によって命名された。
花斉会は、前原誠司を民主党の代表候補として支援するグループとして成立した前原グループと共同歩調を取ることが多く、また前原グループと同様にメディアに露出する議員が多いため、党内に一定以上の影響力を持つ。以下に見るように代表選では一致した行動を取ることが多く、とくに代表選で候補者を出すときは一致結束して支援してきた。それゆえ、メディアではこの前原グループ、花斉会両グループをまとめて前原・野田グループと称することも多い。
この前原・野田グループは、2002年(平成14年)9月23日の代表選では野田を支援して及ばなかったものの、2004年(平成16年)5月18日の代表選では岡田克也を無投票当選させ、2005年(平成17年)9月17日の代表選では菅直人を2票差で破って前原を当選させる原動力となった。
また、前原・野田グループに松下政経塾出身の議員が多く、民主党内では前原・野田グループを政経塾サークルと揶揄する声もあったほどである。
特に、志士の会は、メンバーが全員松下政経塾出身であったこともあり、近しい関係にある前原グループメンバーからさえ独特の閉鎖性を指摘されるほどであった。このことが逆に花斉会への拡大の契機となったと見受けられる。このように、派閥としての纏まりが緩い民主党の中では異質ともいえる結束力の強さが特徴である。

しかし、2008年(平成20年)9月の代表選での野田の立候補を巡って亀裂が生じ、立候補反対派だった松本剛明は小沢への傾斜を深め、立候補賛成派だった馬淵澄夫は退会した。
中心メンバーだった両者の離反は野田とグループにとってかなりの打撃を与え、党内での存在感を大幅に低下させた。
志士の会あらため花斉会は、政策立案能力に自負心を持っているとされており、いわゆる対案路線を最初に主張したグループでもある。新保守主義的な傾向も見られる。
2008年(平成20年)、花斉会は、「ニッポンまる洗い」と題する独自の基本政策を掲げ、政権交代に向けて研究中である。この「ニッポンまる洗い」という基本政策は、8つの柱からなり、行財政改革や地域主権の確立に主眼を置いているとされている。
2009年(平成21年)の鳩山政権発足に際しては、党内のグループで唯一閣僚を出せず、領袖の野田は財務副大臣に止まるなど冷遇振りが際立った。
2010年(平成22年)、脱小沢を掲げて成立した菅政権では、野田自身が財務大臣に就任し、グループの事務局長である蓮舫行政刷新担当大臣に就任した。
2011年(平成23年)、菅内閣総理大臣退陣に際しての代表選では、やはり前原グループと共同歩調が取られ、献金問題などを抱える前原ではなく野田が出馬する方向で調整が進められていたが、調整は難航して前原・野田ともに出馬することになった。前原・野田の他に海江田万里鹿野道彦・かつて花斉会に属していた馬淵澄夫の5人が出馬し、野田が民主党代表に選出された〔1回目投票では、1位 海江田(143票) 2位 野田(102票) 3位 前原(74票) 4位 鹿野(52票) 5位 馬淵(24票)となり、得票数が過半数に達した候補者はいなかった。〕〔決戦投票では、野田(215票) 海江田(177票) 無効票(3票)となり、野田が逆転勝利して代表に選出された。前原の凌雲会は野田に投票したが、かつて花斉会に属していた馬淵は海江田に投票した。〕。
2012年(平成24年)、12月16日第46回衆議院議員総選挙では民主党が歴史的惨敗を喫し会長である藤村修が落選し党首であった野田は辞任した、また凌雲会と共に党および内閣の中心を担っていたため現在は大幅に発言力を失っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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