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野田 俊彦(のだ としひこ、1891年 - 1932年)は、日本の建築家。大正期から昭和初期に建築技師として活動。当時の陸軍省、内務省、警視庁、同潤会と、おもに官公庁などの建築師として職場を渡り歩く。 建築史上では建築の実作より「建築非芸術論」など多くの論考を著した当時の論客としての側面で知られる。肥満体で、内務省時代の同僚石川栄耀に、その体格を「ビア樽のような」とエッセイ(『余談亭らくがき』所収)で紹介されている。画家で日本美術院会員の野田九浦とは親戚。横浜市生まれ。 == 経歴 == 東京帝国大学工学部建築学科に1911年に入学し、1914年卒業論文として「鉄筋混凝土と建築様式」を提出。1915年(大正4年)卒業。卒業論文の一部を改題した論文でトルストイの『芸術とはなにか』に強い影響を受けて書いた「建築非芸術論」が、当時助教授であった内田祥三の推薦で『建築雑誌』誌に掲載される。野田は実用的な建築、合理主義に基づく建築美について論述し、建築非芸術論を実践した卒業制作では純実用の劇場計画を提出した。なお、「建築非芸術論」の学会誌への紹介記事において、内田は野田を「大学時代、建築の意匠計画にはすこぶる堪能」と評している。 その後も「建築非芸術論の続」、チャールズ・ビアードの公共建築に日本式を採用すべしとの提言に対する反論「所謂日本趣味を難ず」「ビアード博士に一言す」、さらに「因襲的なる木材構造法の革新を促す議院建築当選図を見て」「『所謂国風の建築様式』を読みて」「建築家と美学(上)」「分離派運動」「建築と文化生活」「火災の利用」「隅田川に架すべき六橋は同一様式たるべし」「東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集感想」「建築論」「日記より」「書翰」「建築無名会・建築青年会記事」「身振技競技規程」などの論考を発表。当時の分離派建築会の主張を、野田は軽薄な芸術と揶揄した。大正期の設計・施工分離一貫論争では、「衣服と建築」を発表し、建築士なら洋服屋のやる位の徳義は守れると、洋服屋のたとえで兼業肯定論を展開した。 また「貴衆両議院焼く」「文化住宅」「建築様式の変遷」「代数ノ話」「誤解せられたる文化住宅」「職人気質」「防火地区の完成」などの文章を残す。 大学卒業後は陸軍省に建築技手として入省し、いくつかの建築を手がける。合間に、建築設計競技にも参加し、実作として小さなバーなどをいくつか手がけている。妻はそのときのバー経営者の娘である。陸軍ではその他、大佐クラスでも不備があれば呼びつけて命令していたという。 その後1920年に内務技手として内務省都市計画地方委員会へと転出。同委員会では市街地建築物法の制定に尽力した。1922年海外視察。長旅の船内でゴシップを話題にしたマンガを制作し、人気を博したという。 1924年内務技師となり、内務省都市計画局第二技術課長に着任。関東大震災後、内務省復興局技師を兼任し帝都復興事業基本計画に参画し、起草。復興局技師は1928年まで兼務。1925年東京帝国大学図書館建築部工営課長。1926年、警視庁建築課長。1926年からは同潤会嘱託。1929年から東京工業大学工業専門部講師。1932年に38歳で死去した。 内田祥三の弟子として大学時代から忠実な人物で、身の振り方はいつも内田に相談し指示に従っている。 建築では、同潤会大塚女子アパートの設計に関与。内田祥三の済南領事館(1918年)では、ステンドグラスの絵を担当。現存する作品に、前橋市水道記念館(旧浄水構場事務所、国の登録有形文化財) がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田俊彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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