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野田 成人(のだ なるひと、1966年11月15日 - )は、Aleph(旧「オウム真理教」)元代表。ホーリーネームはヴァジラティクシュナーで通称はVT。省庁制が採用された後は、「車両省大臣」となった。 現在は脱会して宗教活動から離れ、ホームレス支援活動を行っている。 ==来歴== 白陵中学校・高等学校を経て、1985年、東京大学に進学。3年次に東京大学理学部物理学科に進むと同時に20歳でオウム真理教に入信。のち大学を中退。麻原の著書に書かれていた解脱や輪廻という考えに共鳴。戦後の教育や思想からは消えた古来の日本の仏教にあった神仏習合や生まれ変わり、漠然とした見えないものに対する信仰といったものへの傾倒の内に麻原の理論は明確と感じる。在学中にはノーベル物理学賞を目指していたものの、ある研究者にだけはどうしても勝てないと感じ、苦痛に感じていたところ麻原の思想に出合い絶対的なものにすがる思いから、1987年に入信〔産経ニュース「麻原死刑執行」は“神格化”招く恐れがある 2013.8.11 12:00 (1/3ページ) 〕、同年10月に出家。 1995年の地下鉄サリン事件の3日前に正悟師に昇格。この時の尊師通達で一挙に十数名が昇格したが、その中には林郁夫・小池泰男・中川智正・土谷正実・井上嘉浩等、教団の凶悪犯罪に深く関わったものが多かったが、野田が一連の凶悪犯罪の罪に問われることは無かった。 1995年の省庁制廃止後は、長老部のメンバーとなり教団を運営した。「アーレフ」になっても幹部として留まり、教団のパソコン事業を統括した。 2000年1月24日、東京拘置所面会所前に止めた車の中にいた所を暴力行為等処罰ニ関スル法律違反容疑で逮捕されたが、すぐに釈放された。 2004年7月6日に「桃源クリーム事件」(都道府県知事から医薬品販売の許可を受けていない医薬品を720人に販売した事件)で薬事法違反容疑でまた逮捕される。裁判では懲役1年6月、執行猶予5年の有罪判決を受けた。 アーレフ代表の上祐史浩の脱会直前の2007年3月1日に、2月10日の役員会で上祐の後任の代表と決議され、その決議に代表に就任したと教団内部向けに発表し、その後すぐマスコミ各社に向けて同様の内容を発表した〔 〕。また、代表派は、アーレフ脱会の報道発表資料において上祐によって送付された代表者出家信者一同の脱会通知メールの内容を公表していて、その宛先は「宗教団体・アーレフ 新代表役員 野田成人 殿」となっている。 一方、アーレフを主導するA派は、野田の代表就任について、「法的有効性について極めて疑わしい」としていることを広報部を通して公表している。野田自身も、A派が野田の代表就任を認めていないこと、教団運営上の実権を有していないことを認めている〔。 2009年3月9日付で教団から除名されたことを2009年3月19日の会見で明らかにした〔『「麻原を処刑せよ」でアレフ野田代表除名』、日刊スポーツ2009年3月20日〕。 理由は、麻原が処刑されなければ洗脳は解けないんじゃないか、という内容の文章をブログで書いたことであった〔産経ニュース「麻原死刑執行」は“神格化”招く恐れがある 2013.8.11 12:00 (2/3ページ) 〕。その後は、自ら立ち上げたNPO団体みどりの家族代表として、ホームレス支援活動を行い、事業の収益の一部をオウム真理教事件被害者賠償に回している。また事業により、2013年には固定資産評価額が1億円を超え、これも将来的には遺言によりオウム真理教犯罪被害者支援機構に遺贈されるとする〔「二ノ宮7」 元オウム教団幹部 野田成人のブログ〕。 1995年に発生した警察庁長官狙撃事件については、当時の状況からオウム真理教の関与が疑われても仕方ないとしつつも、他の事件と違い教団内で噂が広まらなかったことから、オウムの犯行とする警視庁の所見に懐疑的な見解を示している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田成人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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