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野田景範 : ウィキペディア日本語版
野田景範[のだ かげのり]
野田 景範(のだ かげのり、生年不詳-寛永元年(1624年))は、戦国時代に活躍した武将である。古河公方家臣。永禄8年(1565年)頃、野田氏の家督を継いだと考えられる。下総国栗橋城主。野田右馬助・菊院斎とも呼ばれる〔『戦国人名辞典』787頁(見出し「野田景範」の解説・長塚孝執筆)〕。古河公方擁立争いをしていた北条氏政上杉謙信との間で去就に苦しみ、居城をも失ったが、晩年には徳川家康の家臣となり、中世野田氏を近世野田氏に移行させた。
== 生涯 ==
生年不詳だが、天文18年(1549年)生まれの簗田持助より多少年長程度の同世代であり、妻は簗田晴助の娘・持助の妹〔『野田家文書』 No.73 「雪の出羽路」〕、実名中の「景」は上杉謙信(長尾景虎)からの偏諱と考えられる〔黒田基樹 『古河公方と北条氏』 岩田書院、2012年、77 – 89頁(栗橋城主野田氏の没落)〕。

天文23年(1554年)、前古河公方足利晴氏藤氏の親子が古河城奪還を図った際には、兄・野田弘朝とともに第5代公方・足利義氏とその後ろ盾となった後北条氏の側に立ち、晴氏らに対抗した〔『野田家文書』 No.42 「野田家文書」〕〔。
永禄3年(1560年)、上杉謙信が関東に入り関宿城の足利義氏を取り囲むと、兄・弘朝とともに籠城したが、永禄4年(1561年)に義氏が城を出る頃には、義氏に随行した弘朝と行動を別にしていたと考えられる〔。

永禄9年(1566年)、景範は上杉方として行動していた。上杉謙信が下総小金城、同・臼井城攻撃のため動員すべきとした関東衆のなかに「野田 五十騎」が含まれている〔『野田家文書』 No.59 「謙信公御書」〕 。上杉謙信から偏諱を受けていることから、このころに元服したと考えられる。しかし、臼井城攻撃の失敗後、他の関東衆と同様に景範も離反する〔。
永禄10年(1567年)5月には、北条氏照から起請文〔『野田家文書』 No.60 「野田家文書」〕を与えられており、後北条氏に従属したことが確認できる。本起請文の中で栗橋城明け渡しを要求され、景範は栗橋城主としての地位を失う。永禄11年(1568年)10月には既に古河城に移っており、氏照より古河・鴻巣への在宿を指示されている〔『野田家文書』 No.65 「野田家文書」〕ので、このころには栗橋城を明け渡していた〔。

景範は後北条氏従属後、同じ古河公方家臣との所領争いにも苦しんだ。永禄10年12月には幸手一色氏と「河辺十六郷半」を巡り争っている〔『野田家文書』 No.61 「野田家文書」〕。続いて豊島氏景とも、下野寒川郡網代氏一跡について争論となる。しかし永禄11年(1568年)7月、公方・足利義氏により、一色氏・豊島氏どちらの争論についても景範の訴えは却下されている〔『野田家文書』 No.63 「野田家文書」〕〔。
これらの所領争いにより公方・義氏の不興を被ったこと、さらに栗橋城を失った影響により、累代の公方家重臣であった野田氏は失墜し、以後、公方側近の中に名前が見られなくなる。同じ公方家重臣だった簗田氏一色氏が、義氏死後も「御連判衆」として側近であり続けたことと対照的である〔新井浩文 『関東の戦国期領主と流通』 岩田書院、2011年、253-273頁(幸手一色氏と栗橋野田氏)〕。
永禄12年(1569年)、北条氏政上杉謙信との間に越相同盟が成立し、両者の間で古河城栗橋城の帰属を巡る交渉が行われた際には、北条氏照から景範に対して、「栗橋城は景範の本地であることを理由に後北条氏が確保すること、栗橋城を景範に返還する意向であること」が示された〔『野田家文書』 No.67 「野田家文書」〕。実際に同年7月、景範は栗橋在城を命じられる〔『野田家文書』 No.70 「野田家文書」〕〔。
元亀3年(1572年)12月までに景範は再度離反する。所領争いや後北条氏家臣との闘乱事件〔『野田家文書』 No.71 「野田家文書」〕により、後北条氏のもとでは不満が募っていたと考えられる。元亀3年12月、栗橋城は後北条氏の攻撃を受け落城した。その後は、再び公方・義氏のもとに帰参し、「野田三郎」に家督を譲った〔『野田家文書』 No.74 「喜連川御料所記」〕と考えられている。以後、栗橋城は北条氏照の北関東攻略の拠点となる〔。
「野田三郎」が没したのち、景範は自ら家督を引き継いだ。文禄元年(1592年)、野田家伝来の宝刀「菖蒲丸」を献上することで、本多正信を通じて徳川家康より召抱えられ、下総・大塚戸(茨城県常総市)に50石を与えられる〔『野田家文書』 No.86 「野田家文書」〕。景範は幕臣としての近世野田氏の祖となった〔佐藤博信 「野田家文書の伝来と現状」『野田家文書』、9-16頁。 なお本稿は、佐藤博信 『中世東国の権力と構造』 校倉書店、2013年、281-300頁 にも収録。〕〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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