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野田 朝次郎(のだ あさじろう 1872年(明治5年)頃 - 1942年(昭和17年)1月)とは、記録に残っている中では最初にニュージーランドに移住し、帰化した日本人である。 == 生涯 == 野田朝次郎(以下「朝次郎」と記す)は1872年(明治5年)頃、熊本県天草郡天草下島(現熊本県天草郡苓北町)に生まれ、幼少の時に船大工の父とともに長崎へ移住した。 1880年(明治13年)頃、朝次郎の父のもとに長崎に入港したイギリス船から修理の依頼があった。朝次郎の父はこの仕事をこなし、その仕事ぶりに感謝したイギリス船の船長は、朝次郎の父を招待して船上パーティを開くことを決めた。 パーティ当日、朝次郎の父は当時7~8歳の朝次郎を連れて船にやってきた。朝次郎の父は船員たちから仕事ぶりを感謝され、酒が振る舞われた。パーティが終わり、朝次郎の父は朝次郎がいなくなっていることに気付いたが、先に帰宅したものと思い込み、朝次郎を残して下船した。しかし、朝次郎はこの時まだ船内に隠れていて、父親が迎えに来るのを待っていた〔『そこに日本人がいた!——海を渡ったご先祖様たち——』p309〕。 そして翌日、イギリス船は朝次郎を乗せたまま長崎を離れ、沖合を航行している時になって初めて朝次郎が船内に置き去りにされていることに気付いた。船員たちは朝次郎に日本に戻ることができないことを告げ、対応に困っていた時、洋上でドイツ船とすれ違った。すぐにイギリス船の船員たちはこのドイツ船に連絡を取ると、ドイツ船は日本に向かう途中であることがわかったため、イギリス船の船員たちは朝次郎のことをドイツ船に預けた。しかし、このドイツ船は日本に寄ることはなく、朝次郎もこのドイツ船に乗ったまま世界各国を巡ることになった。 その後、朝次郎はこのドイツ船の船員として働くようになり、長崎出発から10年程経った1890年(明治23年)頃、船はニュージーランド南島最南端のブルーフ港に入港した。朝次郎はここでドイツ船を降り、隣町のインバーカーギルに移って採掘場やホテルで数年間働いた後、北島のワイカト地方に移住した。 ワイカトに移った朝次郎は園芸農業を営み、イチゴの品種改良に成功して財を成した。また、朝次郎はこの頃ンガティ・マフタ()というマオリ女性と結婚して3男2女に恵まれた。 朝次郎は晩年、に面したバトレイという町に移り住んだ。やがて太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦し、日系人は強制収容所に送られるようになると、朝次郎の次男のマーティンも収容所に入れられた〔日本人の船員と交流があったためとされている。〕。朝次郎自身は高齢のために収容所に入ることは免除されたが、1942年(昭和17年)1月に自宅で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野田朝次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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