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野良田の戦い[のらだのたたかい]
野良田の戦い(のらだのたたかい)とは、永禄3年(1560年)8月中旬に近江野良田(現在の滋賀県彦根市野良田町及び肥田町で行なわれた北近江の戦国大名・浅井長政軍と南近江の戦国大名・六角承禎軍の合戦。この合戦で浅井長政が勝利し、浅井家の北近江における覇権が確立した。 戦場の場所から野良田(野羅田)表の戦い、肥田の戦い、宇曾川の戦いとも称される〔。 == 合戦までの経緯 ==
浅井家は元々、北近江半国守護であった京極家の家臣であったが、浅井亮政の時代に主家の衰退に乗じて下剋上を成し遂げた〔 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.145〕。亮政は隣国の越前の朝倉家の支援を得て浅井家の戦国大名化を推し進めた〔 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.146〕。しかし亮政の没後、跡を継いだ久政は器量に欠ける当主だったため、南近江の六角定頼の圧力に抗しかねて従属する事になる〔。このため、久政の嫡子は定頼の嫡子・義賢の偏諱を受けて賢政と名乗り、さらに正室に六角家の重臣・平井定武の娘を迎えねばならなくなった〔。 永禄2年(1559年)、浅井家ではこの久政の屈辱外交に不満を抱く家臣が賢政を擁してクーデターを起こした〔。久政を強制的に隠居させて賢政に家督を譲らせ、賢政は「賢」の字を捨てて長政と名乗って六角家と手切れし、平井夫人を六角家に送り返した〔。このクーデターはかなり前から周到に用意されていたようで、長政はクーデターと同時に浅井・六角領の境界線に位置する六角家の国人領主に調略をしかけており、それによって永禄3年(1560年)に愛知郡肥田城主・高野備前守が浅井家に寝返った〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野良田の戦い」の詳細全文を読む
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