|
野馬台詩(野馬臺詩、耶馬台詩、やばたいし、やまたいし)とは、日本の平安時代から室町時代に掛けて流行した予言詩。中国・梁の予言者、宝誌の作とされるが、偽書の可能性が高い。偽作者については不明で、日本で作られた可能性はあるが、中国で作られたのは本当とする説もある。 ==概要== 現存する文献では、「延暦九年注」(790年)として、鎌倉時代に成立した『延暦寺護国縁起』に引用された逸文が初出といわれる。引用された内容が事実ならば、奈良時代末期には作られていたことになる。また、平安時代には、『日本書紀』読解の講義録である『日本紀私記丁本』(936年、承平6年)の問答集に言及がある。それによれば、日本を「姫氏国」とする説があるかという質問に対し、宝志の予言に「東海姫氏の国」とあり、皇室は女神の天照大神を始祖とし、また女帝の神功皇后がいるから、日本を姫氏の国と称したという回答が収録されている。 平安時代末期に成立した『江談抄』によれば、遣唐使の吉備真備が唐の玄宗に謁見した時、解読を命じられた。詩は文がバラバラに書かれていて、まともに読めないようになっていた。真備が困り果てて日本の神仏に祈ると、蜘蛛が落ちてきて、蜘蛛の這った後を追うと、無事読むことができたという。また、現存の前半部分には、野馬台詩に関する部分を欠くが、同じく平安末成立の絵巻物である『吉備大臣入唐絵巻』も、同じ事柄を描くものである。 平安時代後期から、終末論の一種として、天皇は百代で終わるという「百王説」が流布するようになった。鎌倉時代初期成立の慈円の『愚管抄』には、「人代トナリテ神武天皇ノ御後百王トキコユル。スデニノコリスクナク八十四代ニモナリニケル中ニ。保元ノ乱イデキテ後ノコトモ。又世継ガ物ガタリト申物ヲカキツギタル人ナシ。少少アルトカヤウケタマハレドモ。イマダエ見侍ラズ。」とあり、百王説が説得力を持っていたことがわかる。 南北朝時代には天皇が百代に達した(現在の皇統譜では、後小松天皇で百代。しかし、当時は北朝を正統としており、他にも即位を認められていなかった天皇もいるため、数え方によって数代前後する)。1402年、足利義満は、坊城俊任に「百王」の端緒を問うた。俊任は吉田兼敦に「百字とはただ衆多の数のことで、百の字に数の百という意味はない」と教えてもらったという。『古事記』に「百王(もものきみ)」とあるのは確かに兼敦の解釈で正しいのだが、今谷明は、皇位簒奪を企んだ義満が、『野馬台詩』を念頭に質問したのではないかと推測している。 江戸時代に入ると、野馬台詩のパロディが作られるようになった。幕末には、鯰絵の一種である『野暮台詩』、浦賀への黒船来航を詠んた『野暮代之侍』、南部一揆を詠んだ『南部一揆野馬台詩』などが作られている。『野蛮台詩』、『屁暮台詩』などもある。これらは、『野馬台詩』の伝承に則り、暗号形式で書かれていて、ある規則に従うと、正しく読めるようになっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「野馬台詩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|