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金丸 将也(かねまる まさや、1987年3月19日 - )は、広島東洋カープに所属していた元プロ野球選手(投手)。宮崎県宮崎郡清武町(現:宮崎市)出身。 == 経歴 == 小学4年生から野球を始め、佐土原高時代に3年夏の甲子園に出場し、チームに甲子園初勝利をもたらす。 その後、中部大学に進学。大学1年からリーグ戦に登板するも球速も130km/h前後であり、2年秋には左肩を故障。しかしこの故障を機に1日5食を課し10kg以上の増量を行い球速も140km/h台に上昇、大学4年時には先発投手として中部大初の全国大会進出の原動力となる。愛知大学リーグ戦通算11勝8敗。中日ドラゴンズなどを含む8球団のプロスカウトからも注目され、自身も「自分のことを欲してくれる球団ならどこでも行って投げたい」と12球団OKの姿勢だったが、4年秋に再び左肩を痛めた影響もあり、ドラフトでは指名に漏れ、東海理化に入社。 入社後も肩の治療の為ほとんど投球をせず、リハビリに専念したトレーニングを続ける。地道なリハビリの結果、翌年6月には痛みがほとんど無くなり、再び投手としてマウンドに立てるようになった。入社2年目の都市対抗予選では抑えとして活躍。故障前の中部大時代には75kgの細身だった体重も地道なトレーニングにより更に10kg以上増え、140km/h台前半だった球速が最速150km/hにまで増し、再びプロのスカウトが訪れるようになる。 2010年10月28日のドラフト会議では、新聞ニュースなどの前情報ではほとんど取り上げられていなかったが、スピードのある即戦力投手を欲していた広島東洋カープに4位にて指名され、同年11月16日、契約金4000万円・年俸1000万円で仮契約。背番号は30。 プロ1年目のは二軍でも10試合で防御率8.22と結果を残せず、一軍での登板機会は与えられなかった。同年の秋季キャンプから大野豊投手チーフコーチから提案されたサイドスローに挑戦し、紅白戦4試合・投球回8回で1失点と好投。の沖縄での一軍春季キャンプに参加することが決まった。同年シーズンは、左の中継ぎとして二軍で37試合に登板。防御率1.17と好成績を残すも、一軍での登板はなかった。 3年目のシーズンも中継ぎ投手として二軍で24試合に登板するも防御率3.50と防御率を前年から大きく落とし、一軍での登板はなかった。10月29日に戦力外通告を受けた。〔来季の選手契約について 広島東洋カープ公式サイト 2013年10月29日閲覧。〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金丸将也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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