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金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ、生年不詳〔丸島(2015)、p.263〕 - 元亀2年8月8日(1571年8月28日)?〔)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。諱は『甲斐国志』では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の父は金丸忠経(若狭守)とされるが、両人の活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される〔。『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の子息には金丸平三郎・土屋昌続・金丸平八郎・秋山昌詮・金丸助六郎・土屋昌恒・土屋惣八・秋山源三郎がいる〔。 父とされる忠経(若狭守)は筑前守と同世代の人物で、『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑後守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている〔。 『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという〔。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている〔『一蓮寺文書』 - 1002〕〔。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている〔『諸州古文書』 - 1054〕。 元亀2年(1571年)8月8日に死去〔。墓所は山梨県南アルプス市徳永の長盛院。法名は『甲斐国志』所収の長盛院に伝わる位牌によれば、「長盛院玉叟浄金庵」とされる〔。『甲斐国志』では筑前守の没年を元亀3年(1572年)で、法名を「長守院大叟照公禅定門院」とする異説を紹介しこちらを妥当としているが、確定されていない〔。 == 子孫の動向 == 筑前守の嫡男である平三郎は永禄3年(1560年)を終見史料とし、以降は足跡が途絶える〔。『甲陽軍鑑』によれば平三郎は武田信廉の被官に殺害されたという〔。金丸氏の家督は助六郎が継承し、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して死去している〔丸島(2015)、p.262〕。助六郎の子孫は結城秀康の家臣となっている〔。 一方、筑前守の次男・昌続(昌次)は武田家の奥近習六人の一人となり、永禄4年(1561年)の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を継ぎ信玄の側近となる〔平山(2008)、p.330〕。昌続は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死し、弟の昌恒が家督を継承した〔。 筑前守の三男・昌詮は武田家の譜代家老・秋山虎繁(信友)の女婿となり秋山氏を継ぐが、天正7年(1579年)7月23日に病死しする〔丸島(2015)、p.20〕。その後、筑前守の七男・源三郎(親久)が同じく虎繁の女婿となり、秋山氏を継承する〔丸島(2015)、p.23〕。源三郎は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際に戦死しているが、『寛永諸家系図伝』では伊豆大平へ逃れた子孫がいたとする伝承を記している〔丸島(2015)、p.20〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金丸筑前守」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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