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金井淡路守 : ウィキペディア日本語版
金井秀景[かない ひでかげ]

金井 秀景(かない ひでかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上野国西部の武士団、倉賀野衆の一人である。金井淡路守とも称する。後に倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。
== 生涯 ==
はじめ倉賀野行政麾下、倉賀野十六騎の一人として関東管領上杉憲政に従った。
天文15年(1546年)、行政が河越城の戦いで討死すると、他の十六騎と共に病弱であった嫡男・倉賀野為広をよく助け、城を守る。天文16年(1547年)の小田井原の戦いでは、籤引きで先鋒に選ばれた為広の名代として上杉勢を率い、武田晴信と戦うが、大敗を喫した。
その後、為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ永禄2年(1559年)頃、秀景は一転して信玄に仕える。
永禄8年(1565年)、武田信玄により倉賀野城が落城。孤立した箕輪城も永禄9年(1566年)落城、箕輪城主の長野業盛は自刃、倉賀野尚行は上杉謙信のもとに逃亡すると、元亀元年(1570年)、倉賀野城主となり名字を倉賀野に改める。
天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が滅亡した後は織田氏の武将滝川一益に伺候する。秀景はこの時武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど一益の補佐役に位置する立場にあった。
同年6月の神流川の戦いでも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、破れた一益が関東から撤退すると、和田信業等と共に北条氏の軍門に降る。この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸等と木曾まで一益を警固している。
天正18年(1590年)の小田原征伐では北条方武将として小田原城に籠城し、早川口の守備についた。小田原城は同年7月5日に落城。秀景は7月27日に没した。死因は不明である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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