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金信則 : ウィキペディア日本語版
金信則[こん のぶのり]

金 信則(こん のぶのり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将津軽氏の家臣。
== 生涯 ==
津軽氏の重臣・金信就の子として誕生。なお、「」姓は「今」「昆」とも書き、祖父は今信忠、曽祖父は今信綱である。また、「金」と「今」は本別家の関係であるとの説もある。〔「青森県人名大事典] 1969年 東奥日報社 金 小三郎信則の項 247頁 〕
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおける西軍の勝利を信じた尾崎喜蔵板垣将兼多田玄蕃ら500人が堀越城を武力占拠すると、信則は板垣、尾崎の2人を討ち取り、この反乱を収拾。この功績で津軽為信から500石を賜った。慶長8年(1603年)、父・信就の死で1000石を継ぎ、1500石の大身となった。
その後、為信の長男・津軽信建の子・熊千代附となるが、慶長14年(1609年)、熊千代の跡目相続が認められなかったことによる津軽騒動により、同年3月29日切腹した。
なお、子・信久兼平信孝に引き取られ、後に100石で与力となり、存続した。〔「青森県人名大事典] 1969年 東奥日報社 金 治衛信久の項 248頁 〕子孫には金氏が下新岡村を領し、金信就が「下新岡信就」を称したことから、「新岡」姓を名乗り、累代郷士となったものもいる。〔「青森県人名大事典] 1969年 東奥日報社 新岡仁兵衛の項 504頁 〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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