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金子 七郎兵衛 保憲(かねこ しちろうべえ やすのり、安永6年(1777年) - 弘化3年5月1日(1846年5月25日))は、日詰町美濃屋(後の幾久屋)の4代目、盛岡藩勘定奉行。 == 経歴 == 郡山美濃屋初代、金子七郎兵衛は、美濃国武儀郡関の出身である。寛文末から延宝末にかけての頃に南部へ移り、日詰町に呉服屋を開業した。 この美濃屋は4代目金子七郎兵衛保憲の代になり繁栄するが、それは藩主南部利済との関係が大きい。利済の父利謹は藩主の座につくべき人であったが、ある事情から廃嫡され、子の利済も盛岡願教寺に預けられて、少年時代は不遇のうちに過ごした。これを気の毒に思った保憲はひそかに庇護してきたが、その利済が後に藩主に迎えられることになった。 利済の保憲に対する信任は格別なものがあり、そのため、藩御用達、日詰代官所の役人に登用されたのを初めとし、天保15年(1844年)に勘定奉行元締役という行財政の最高の役に抜擢されるに至る。保憲はこの地位を背景として、商業の面でも大活躍をとげ、呉服・食料品・雑貨等の販売、鉱山経営や植林事業にも携わった。また、1万両を出して承慶橋を架橋、橋は洪水に流されて6年間と短命であったが、果たした役割は少なくなく、川面に顔を見せる橋脚の岩は紫波の商人の心意気を今に伝えている。 美濃屋は後に幾久屋と藩命によって変わる。資産は田畑が31ヶ村にわたり、計784石余(約78町歩)、家屋敷が日詰に37軒、外に35軒、数百町歩の植林地があったと伝えられる、南部を代表する豪商の一つであった。 4代目金子七郎兵衛の次男、善七の次女キンが花巻の宮沢喜助に嫁ぐ。キンは宮沢政次郎の母であり、宮沢賢治の祖母にあたる。 先祖は武儀郡関の刀工、金子孫六(関孫六)。5代孫六(彦左衛門)の子で京都で商人となった宗三郎(法名浄閑、享保4年・1719年没)の子が初代金子七郎兵衛である。 弘化3年(1846年)5月1日、69歳で没し、日詰町来迎寺に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金子七郎兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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