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金子兜太 : ウィキペディア日本語版
金子兜太[かねこ とうた]

金子 兜太(かねこ とうた、1919年大正8年)9月23日 - )は、埼玉県出身の俳人。加藤楸邨に師事、「寒雷」所属を経て「海程」を創刊、主宰。戦後の社会性俳句運動、前衛俳句運動において理論・実作両面で中心的な役割を果たし、その後も後身を育てつつ第一線で活動している。上武大学文学部教授、現代俳句協会会長などを歴任。現代俳句協会名誉会長日本芸術院会員、文化功労者小林一茶種田山頭火の研究家としても知られる。
== 来歴 ==
1919年9月23日埼玉県比企郡小川町の母の実家にて、父・元春、母・はるの長男として生まれる。2歳から4歳までその父の勤務地であった上海で、帰国して以降は秩父の地で育つ。父・元春は開業医で、「伊昔紅(いせきこう)」という俳号を持つ俳人。水原秋桜子の「馬酔木」に所属し、1930年に自身の俳誌「若鮎」を創刊している〔『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、371頁。〕。また秩父音頭の復興者としても知られている人物である〔五島高資 「金子兜太」 『現代俳句大事典』、152-154頁。〕〔秩父音頭のふるさと みんなのみなの 秩父観光協会、2015年7月閲覧。〕。
旧制熊谷中学旧制水戸高等学校文科乙類を経て、1943年に東京帝国大学経済学部を卒業。高校在学中の1937年、一級上の出澤三太に誘われて同校教授宅の句会に参加し、はじめて句作〔。最初の句は「白梅や老子無心の旅に出る」であった〔。以来本格的に句作をはじめ、翌年、全国学生俳誌「成層圏」に参加、竹下しづの女加藤楸邨中村草田男らの知遇を得る。1939年、嶋田青峰の「土上」に投句。大学入学後の1941年、加藤楸邨主宰の「寒雷」に投句し、以来楸邨に師事する。
1943年、大学を繰り上げ卒業して日本銀行に入行〔、面接官は佐々木直だった。海軍経理学校短期現役士官として入校、海軍主計中尉に任官、トラック島で200人の部下を率いる。餓死者が相次ぐなか、2度にわたり奇跡的に命拾いする。1946年、捕虜として春島(現モエン)アメリカ航空基地建設に従事したのち〔安西篤編 「金子兜太略年譜」『金子兜太』196-199頁。〕、11月に最終復員船で帰国。1947年2月、日本銀行に復職。同年4月、塩谷皆子(金子皆子)と結婚〔。1949年から翌年末にかけて、日本銀行労働組合の専従初代事務局長を務める。その間に浦和から竹沢村に住居を移す。1950年末に福島支店、1953年に神戸支店、1958年に長崎支店に転勤ののち、1960年に東京本店に戻る〔『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、372頁。〕。支店まわりから「窓際族ではなく、窓奥。1日2-3回開けるだけの本店の金庫番。だから書けた」という仕事で、1974年の55歳定年まで勤めた。
1947年、「寒雷」に復帰し、沢木欣一の「」創刊に参加。「風」の主唱する社会性俳句運動に共鳴。1951年、福島の藤村多加夫の持ち家に住みながら「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆。1955年より日本ペンクラブ会員。1957年西東三鬼の勧めで「俳句の造型について」を『俳句』誌に発表、自身の創作方法を理論化する。以降俳句造型論を展開し、1960年ころより前衛俳句の旗手に数えられる〔『金子兜太 高柳重信集』 三橋敏雄解説、373頁。〕。1962年隈治人林田紀音夫堀葦男らと同人誌「海程」を創刊。1985年より結社誌となり主宰に就任する。
1974年から1979年まで上武大学教授。1983年より現代俳句協会会長、1987年より朝日俳壇選者〔。1992年、日中文化交流協会常任理事に就任。2000年、現代俳句協会名誉会長に就任。2005年より日本芸術院会員。2006年、妻・皆子が死去。2015年、いとうせいこうとともに『中日新聞』『東京新聞』の「平和の俳句」選者。ほかに一ツ橋綜合財団理事などを務める。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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