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金子吉延 : ウィキペディア日本語版
金子吉延[かねこ よしのぶ]

金子 吉延かねこ よしのぶ1955年(昭和30年)6月28日 - )は、日本子役俳優東京都板橋区出身。
== 来歴 ==
子役俳優として、1960年代から70年代にかけ活躍。子役になったきっかけは、小児喘息で自宅にこもり気味だったため、母親に劇団に入れられたことからだった。
1962年(昭和37年)、7歳。文芸劇場『下町 ダウンタウン』(NHK東京)に出演。当時は子役でも12時から朝の4時まで収録のため拘束されたといい、布団で寝ているシーンで本当に眠ってしまったという。
1963年(昭和38年)、8歳。「文化座」の芝居「月」(監修:内田吐夢)の公演に出演。
1965年(昭和40年)、10歳。『宮本武蔵 巌流島の決斗』(内田吐夢監督)で、初めて東映京都と関わる。「月」の公演で三沢伊織役を探していた内田監督が金子を見染め、ほうぼうの劇団を訪ねて探し回った末に指名してきたという。京都での撮影だったが当時新幹線は無く、飛行機で往復したという。
1966年(昭和41年)、11歳。『丹下左膳 飛燕居合斬り』(五社英雄監督)で再び京都詰めとなる。この年、自身ファンであった白土三平の劇画『ワタリ』が東映京都で『大忍術映画 ワタリ』(船床定男監督)として映画化されると聞き、企画室に日参して出演売り込みを行った〔。脇役希望だったが、主演に選ばれ当惑したという〔。撮影は3ヶ月におよんだため、撮影中は母親とともに東映の女子寮に入寮していた〔。
1967年(昭和42年)、11歳。『ワタリ』の演技が認められ、特撮TVドラマ仮面の忍者 赤影』(関西テレビ、東映)に少年忍者「青影」役で出演、人気を得る。京都の御室仁和寺直近の京都市立御室小学校に転入(5年生三学期から6年生二学期末まで)して撮影に挑んだが、学校にまったく通えず、先生に会ったこともなかったという。成績表は「オール1」となり、このため、2学期から朝の一時間だけ出席することとなった。この『赤影』出演中は、京都の松方弘樹の自宅の向かいに家を借りていた。
1968年(昭和43年)、13歳。『赤影』終了後東京に戻り、無事中学校へ進学するが、『河童の三平 妖怪大作戦』(NET、東映)の主演が決まって通えなくなった。通学のため、『ガメラ対大悪獣ギロン』(湯浅憲明監督、大映)の主演オファーを「泣く泣く断り」、きわどい成績だったがなんとか卒業できたという。高校入学後、日本舞踊を習う。
1970年(昭和45年)、15歳。台湾での『大忍術映画 ワタリ』の大ヒットを受けて、台湾映画界から招かれ、湯慕華(日本名・湯浅浪男)監督のもと、特撮冒険映画『神童桃太郎』、『桃太郎斬七妖』に主演。
1973年(昭和48年)、18歳。高校三年生の折に、旧知である東映の平山亨プロデューサーを日舞の発表会に招いたことがきっかけとなり、『どっこい大作』(NET、東映)の主人公「大作」役に抜擢される。 撮影のためまたも通学できなくなり、ついに退学となるも、担任の尽力により、復学・卒業が叶った。
1978年(昭和53年)、23歳で、本業としては俳優を引退〔。現在は空調関係の会社を経営する傍ら、各種催事や企画ビデオ作品に出演している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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