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金子 大榮(かねこ だいえい、1881年〈明治14年〉5月3日 - 1976年〈昭和51年〉10月20日)は、日本の明治~昭和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。 前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放した。 == 経歴 == 新潟県高田の真宗大谷派最賢寺に生まれる。1899年、真宗京都中学(現、大谷高等学校)を卒業。1901年、京都より東京に移転開校した真宗大学(現、大谷大学)に入学、初代学長であった清沢満之の影響を受ける。04年、同卒業。以後、新潟に帰郷し、寺務に従事しつつ処女作『真宗の教義と其の歴史』を執筆。1911年以後、真宗大学の京都移転に反対して辞職・帰郷していた同郷の曽我量深と親交を深めた。 1915年、請われて上京し清沢満之が創刊した雑誌『精神界』の編集責任者となり、暁烏敏・佐々木月樵に代わり主筆を務めた。同年、東洋大学教授となる。翌年、大谷大学教授に任じられ京都に移るが、1925年、著書『浄土の観念』の内容が異安心とされ、28年、同大学教授を辞任した。 その後も自説を堅持し、1930年から3年間、 広島文理科大学(現、広島大学)で教鞭を執った後、1933年、左京区鹿ケ谷に開設された興法学園で曽我量深とともに研鑽と講義を継続した。1942年、大谷大学教授に復職。1944年には、 真宗大谷派最高の学階である講師を授与された。 1951年、同大学名誉教授、1963年、真宗大谷派宗務顧問となる。 伝統的な仏教・真宗の教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代思想界・信仰界に開放。同時期に活躍した曽我量深とともに、真宗大谷派における、いわゆる「近代教学」の基礎を構築した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金子大栄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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