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金子洋平[かねこ ようへい]
金子 洋平(かねこ ようへい、1981年12月4日 - )は、山口県下関市出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 経歴 == 中学時代はボーイズリーグ・多摩ファイターズボーイズ(現・武蔵多摩ボーイズ)でプレー。国士舘高校では2年春の選抜大会に控え野手として出場〔朝日新聞、1998年3月22日、P.19〕。主将として臨んだ3年夏の東東京大会では一番を任され、3本塁打を記録するもベスト8で世田谷学園に敗れた〔朝日新聞、1999年7月26日付朝刊、東京地方面〕。高校卒業後は青山学院大学へ進学。東都リーグでは2年春にリーグ6位の打率.353を記録しベストナインに選ばれている〔朝日新聞、2001年6月1日付朝刊、P.19〕。4年秋には五番打者として3本塁打を放ち、8季ぶりのリーグ優勝に貢献した〔読売新聞、2003年11月14日付朝刊、P.33〕。大学4年間の通算成績は76試合出場、224打数56安打、打率.250、7本塁打、45打点。 大学卒業後、ホンダへ入社。1年目のは都市対抗で主砲としてチームを決勝戦へ導き、若獅子賞を受賞。またハーレムベースボールウィークやIBAFワールドカップの日本代表にも選ばれ、同年は社会人ベストナインを受賞している。は右ひじを手術したが、2006年のドラフト会議で北海道日本ハムファイターズに6巡目指名され、契約金と年俸それぞれ3,500万円、1,000万円(いずれも推定)で入団した〔読売新聞、2006年11月28日付朝刊、P.25〕。 に新人選手ながらオープン戦で3本塁打を打ち、開幕一軍に登録された。一軍では33試合に出場、3本塁打を記録したが、打率.129と振るわず二軍落ちした。翌は一軍で6試合出場に留まった。しかし二軍では2007年に打率.290、14本塁打38打点、2008年には打率.281、16本塁打54打点の成績で、二年連続最多本塁打のタイトルを獲得した。 は一軍出場がなく、10月2日付で戦力外通告を受けた。シーズン終了後12球団合同トライアウトに参加、この際に広島東洋カープが獲得を検討中と報道されていたものの、最終的に契約する球団は現れなかった。1月27日のホンダでの練習を最後に引退を表明した。その後、チームメイトだった坪井智哉のブログ内でサラリーマンをしている事が明かされた〔坪井智哉公式サイト 〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金子洋平」の詳細全文を読む
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