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金山 明博(かなやま あきひろ、1939年2月25日 - )は東京都出身の日本の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。大沢野小学校、速星中学校、富山県立富山工業高等学校卒業。虫プロダクションを経て、フリー。日本アニメーター・演出協会 (JAniCA) 会員。 == 略歴 == 東京都四谷で生まれる。第二次世界大戦により1944年に富山県の遠戚宅へ疎開、富山県では高校卒業まで過ごす。中学時代には美術部に所属。高校時代から本格的に漫画を描き始める。高校卒業後は集団就職した千葉県の鉄工所に勤務しながら夜間は漫画修行という生活に明け暮れるが、1959年、20歳のときにいったん富山へ帰郷。1960年に再度上京し、貸本漫画出版社の兎月書房で漫画家デビューした。名古屋のセントラル出版で作品をいくつか発表した後、1964年に『少年プロレス王』が秋田書店の「冒険王」誌に掲載され、念願のメジャーデビューを果たす。食べられない時代は、佐藤まさあき、望月三起也、タツノコプロの漫画部でアシスタントを務めた。当時の人気漫画家だった九里一平の影響を受けた作品を発表して、少年画報社、講談社からも声がかかるようになったが、描き直しの要求に反発して編集者と喧嘩。東映動画(現・東映アニメーション)に在籍する兄の奨めもあり、1965年に手塚治虫の虫プロダクションへ入社して、アニメーターへ転身した。 テレビアニメ『ジャングル大帝』第3話の動画からキャリアをスタートさせ、同作で原画に昇格。1968年の『わんぱく探偵団』で初作画監督。以後、1973年に『ワンサくん』で虫プロが倒産するまで、作画スタッフとして虫プロを支えた。特に杉野昭夫、荒木伸吾との3人でパイロット版から参加した『あしたのジョー』はテレビ放映後も共同で作画監督を務めてとりわけ印象深いという作品だと言う。 虫プロ倒産後は、フリーで和光プロやタツノコプロで『新造人間キャシャーン』、エイケンで『冒険コロボックル』の原画を描いていたが、注目を浴びるようになったのは、虫プロ出身者で結成された日本サンライズ(現・サンライズ)での仕事である。1976年から始まった長浜忠夫監督の巨大ロボットもの『超電磁ロボ コン・バトラーV』『超電磁マシーンボルテスV』『闘将ダイモス』は「長浜3部作」とも呼ばれる人気作で、キャラクターデザインや総作画監督の役職を11年務めて作画の中心的役割を果たし、一躍人気アニメーターに祭り上げられる。1970年代末から1980年代初頭の勃興期のアニメ雑誌では、何度となく金山の特集が組まれ、金山の描く版権イラストが表紙を飾ったこともあった。以後も長浜の『未来ロボダルタニアス』のキャラクターデザイン、サンライズ作品の『無敵ロボトライダーG7』『鎧伝サムライトルーパー』に参加する。しかし、もともと原画を描くのが好きで、管理職は性格的に合わないとして『ラ・セーヌの星』で依頼のあった作画監督の仕事を断って原画に専念したほどで、1990年代以降は、一原画マンとしての仕事を増やし、単独で注目された仕事はない。 体調を崩したことから、59歳、1998年頃に一線を退いて、年金生活を送りつつ〔アニメ制作:現場から悲鳴 労働環境改善求め協会設立へ 毎日jp 2007年10月13日 ※リンク切れ〕、個展を開いたりイベントに参加している。同人誌活動も行っている。 2003年、フランスのイベント(パリ)Taifu festaに参加し、色紙を100枚以上書いた。 2006年8月と2007年2月には、埼玉県狭山市のギャラリーで、絵画展「絵師金山明博個展・金山明博ワンダーランド」を開催した〔杉並アニメーションミュージアムにてポケモン展、金山明博展が開催中 - マイナビニュース〕。 アニメーターの仕事以外には、代々木アニメーション学院の講師。1982年1月3日から『中日新聞』の「中日サンデー版」で連載した山浦弘靖原作の漫画『スーパードッグ幻GEN』。『コミックボンボン』の1985年5月号から8月号まで連載した高橋良輔監督原作による漫画『かっとびアニメ丸』がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金山明博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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