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金山 次郎(かなやま じろう、1922年7月19日 - 1984年3月30日)は、福岡県出身のプロ野球選手。 == 来歴・人物 == 豊国商業(現豊国学園高)から1943年に名古屋軍へ入団。 1944年に3本で本塁打王を獲得。 1948年に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って藤本英雄、小鶴誠、加藤正二、古川清蔵、三村勲、野口正明、岩本章、井上嘉弘、藤原鉄之助らと共に退団し、永田雅一が結成した大映球団に所属し大映球団が東急フライヤーズに合流する形で急映フライヤーズに移籍した。 1949年に金星スターズが永田雅一によって買収され大映スターズとなり、そのチームに小鶴誠らと共に移籍。 1950年、2リーグが分裂で赤嶺昌志のセ・リーグ総務の就任に伴いセントラル・リーグの松竹ロビンスに小鶴誠、三村勲と共に移籍。この年、三村勲との1・2番コンビ、小鶴誠・岩本義行・大岡虎雄のクリーンナップトリオで水爆打線と呼ばれた強力打線を形成し、セ・リーグの初代チャンピオンとなった。また自らは74盗塁で初の盗塁王を獲得、この74盗塁は1948年度河西俊雄(南海)の66盗塁を上回る新記録だったが、同じ年に木塚忠助(南海)が78盗塁を記録したため、セ・リーグ記録にとどまった。しかし1983年に松本匡史(巨人)に76盗塁で破られるまでのセ・リーグ記録であり、現在でもセ・リーグ歴代第2位の記録である。また、単打142本は千葉茂の記録を更新する当時の日本プロ野球記録だった〔日外アソシエイツ刊 森岡浩編「プロ野球人名事典」333ページ〕。 1952年、63盗塁で2度目の盗塁王を獲得。 1953年、石本秀一に要請され、小鶴誠・三村勲・片山博と共に広島カープに移籍。ここでも一番打者、二塁手として活躍し、58盗塁で3度目の盗塁王を獲得、広島カープの走る野球の原点となり、人情味あふれる人柄もあわせて「金山が広島を変えた」と言われた。 1955年8月、史上初となる400盗塁を達成。1957年に内野守備コーチ兼任となる。同年シーズン限りで現役引退し、引き続き1958年から1961年まで広島の内野守備走塁コーチを務めた。 1962年、中国放送の野球解説者となり、1975年のカープ初優勝を果たした試合での解説は、ファンの語り草となっている。 歓喜と熱意で迎えてくれた広島を愛し続けた。1980年からは日刊スポーツ野球評論家も務めた。 1984年3月30日、心不全のため逝去。享年61。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金山次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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