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金庸 : ウィキペディア日本語版
金庸[きん よう]

金 庸(きん よう、1924年2月6日 - )は中国香港の小説家。香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者。武俠小説を代表する作家で、その作品は中国のみならず、世界の中国語圏(中華圏)で絶大な人気を誇る。本名は査良鏞(さりょうよう、)。金庸とは筆名であり、本名の「鏞」の字をに分けたものである。
==略歴==
浙江省海寧県袁花鎮の出身、明末の文人で反運動に身を投じた査継佐一族祖先に持つ。当初は外交官を目指し、中央政治大学(現・台湾の国立政治大学)で外交について学んだが、不正に抗議した舌禍事件が原因で退学を余儀なくされる。その後、杭州の『東南日報』で取材記者や英語の国際放送受信の担当を経た後、蘇州東呉大学法学院で国際法課程を修習した。
ほどなく金庸は、『大公報』の電気通信翻訳の試験を受けて採用され、香港支社に派遣される。『大公報』の娯楽紙面である『新晩報』が創刊されると、『下午茶座』の編集担当となり、林歓の筆名で映画評論の執筆を行った。
ちょうどその時、大陸では共産党政権の誕生を迎えた。金庸は単身北京に赴き、自分を外交官として採用するように申し出る。しかし、金庸の思想が共産党と相容れないものだったために、この申し出は拒否された。また、父が反動地主として逮捕される事件も発生する。
これによって外交官への夢を完全に諦めた金庸は香港に戻り、記者として復職した。その後、同僚であった梁羽生が武俠小説の執筆を始めた影響もあって、1955年、『新晩報』に第1作である『書剣恩仇録』を発表した。それを皮切りに、武俠小説の執筆を開始し、一躍人気作家となった。1959年には独立して中道日刊紙『明報』を創刊するが、その原因は『大公報』の左傾化への反発である。
以降、『明報』に社説と武俠小説を毎日執筆連載して、人気作家としての地位を不動のものとすると共に、かつて属した『大公報』などの左翼系各紙と、共産党の施政を巡って激烈な論争を繰り広げ、文化大革命勃発時には、その真の目的が劉少奇打倒にあることを、終末期には当時権力の絶頂にあった林彪の失脚をそれぞれ予言し、政治評論家としての才能も遺憾なく発揮した。1972年には『鹿鼎記』の連載終了と共に、突如作家としての断筆宣言を行って世間を驚かせた。
香港の中国への返還が決まると、香港基本法起草委員会の委員に、中国側の推薦で任命されたが、返還後の香港の政治体制について、金庸が示した方案は、香港の政治的安定を優先させ、中国側の意向に沿ったものだったために、民主派から激しい非難を浴びた。ところが、1989年に天安門事件が発生するや、金庸は抗議して即座に委員を辞し、再び世間を驚かせた。
その後、金庸は『明報』を辞し、持ち株の大半を売って引退した。しかし、引退後もオックスフォード大学の客員教授に選ばれたり、香港特別行政区準備委員会に香港側の委員として参加するなど、その活動は衰えていない。1999年より浙江大学の人文学院長を務めた。2002年には、15作品ある自身の武俠小説の改訂を開始した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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