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金 斗漢(きん とかん、キム・ドゥハン、1918年5月15日 - 1972年11月21日)は、大韓民国の政治家で、第3代および第6代国会議員。金佐鎮(キム・ジャジン、、独立運動家)の息子〔김두한 NATE 백과사전 (百科事典) 2011年6月10日閲覧。〕 〔韓洪九著、79頁〕。本貫は安東金氏〔。号は「義松」(ウィソン)〔。 ==人物・生涯== 1918年5月15日、京城府鐘路(チョンノ)にて金佐鎮(キム・ジャジン)の息子として生まれたとされる。1924年に7歳で祖母と一緒に満州で1回だけ金佐鎮と対面した。朝鮮総督府から不逞鮮人として監視される一方、家庭内の事情も良くなく、梶童(キョドン)国民学校(現 キョドン小学校)を2年生で中退〔김두한 자서전 (1) 저자소개 (『キム・ドゥハン自叙伝 (1)』著者紹介) NAVER 책 (本) 2011年6月13日閲覧。〕。開城に移ったが、10歳の時、1人で京城にきた際に乞食たちに捕まり路上生活者となり、袁氏を名乗る老人に「日帝の勉強はする必要がない。すぐに独立するのでその時勉強しなさい」と言われ、学校には通わずにの下や路頭で17歳まで過ごした。 18歳にして朝鮮全土に約3万人の構成員を抱える任侠団体、鐘路派(チョンノ・パ)の頭目に就任。日本統治時代の末期にはソウルの繁華街、鐘路(チョンノ)を中心に朝鮮のチュモッケの王〔(げんこつ界の王、拳の皇帝、最強の腕っぷし)となった。 不良愚連隊や暴力団のごとく一般市民に対し悪行を働くのではなく、金佐鎮の息子であることを誇りに、強い反日の姿勢から、日本軍の武器庫を爆破。日本系暴力団(商業権を狙って縄張りを拡大していた)と抗争を繰り広げ、朝鮮人商人を保護する侠客として活動した〔「抗日としての侠客ではありませんでした。」(韓洪九著、81頁)〕とされるが、真偽のほどは知られていない。 後の自由党政権下で政治暴力団の頭目として急成長した李丁載(イ・ジョンジェ)は、金斗漢(キム・ドゥハン)が組織する鐘路派の下位団体の準構成員出身である。 戦中に満州や朝鮮半島北部で優勢を誇った朝鮮半島北部の愚連隊の頭目であるシラソニこと李聖淳(イ・ソンスン)とは私的に義兄弟として呼び合う仲だった。 1944年、(本貫は全州李氏)と結婚。1945年9月5日、のちに国会議員となるキム・ウルドンが生まれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金斗漢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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