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金日テイ : ウィキペディア日本語版
金日テイ[きん じつてい]

金 日磾(きん じつてい、紀元前134年 - 紀元前86年9月)は、翁叔で、前漢匈奴系政治家である。匈奴の休屠王の太子である。漢武帝より金姓を賜る。
== 略歴 ==

紀元前121年春、驃騎将軍霍去病は一万騎を率いて、匈奴討伐に出征した。戦いは連戦連勝であった。河西地域にいた休屠王と渾邪王の部族と戦い、休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像を手に入れた。同年秋、休屠王と渾邪王は漢に投降することを画策し漢にその旨を伝えた。そのため漢は霍去病を彼らの迎えに派遣した。しかし休屠王はのちになって投降をためらったので、渾邪王は休屠王を殺した。渾邪王は4万人の匈奴と休屠王の太子を率いて投降した。武帝は渾邪王を列侯に封じた。14歳の休屠王の太子(日磾)とその家族は官奴とされ、太子は馬番をするようになったが、武帝は身長が8尺2寸〔当時一尺は23.2cmなので190cm。〕という、立派な風格と威厳ある容貌を見初め、馬監とした。日磾は大変聡明な人で、次に侍中駙馬都尉、光禄大夫となった。次第に信頼を得て、武帝の近侍臣にまでなった。
彼は休屠王が天を祭るために用いていた黄金の像(金人〔『漢書』張晏注釈では「佛徒祠金人也」(金人とは西域から得た仏像のこと)としている〕)にちなんで、武帝から金という姓を賜った。金日磾の母は人徳者で、武帝はその美徳をとても感心していたが、病没すると、武帝は甘泉宮に休屠王の妻の絵を展示させた。金日磾は毎日母の肖像画に向かい、泣きながらひざまずいて祈り、黙祷した。宮廷生活も数十年となった。金日磾は武帝から宮女を賜ったが、金日磾は彼女に近づこうとしなかった。また武帝は、その女を後宮に入れようとしたが、金日磾は応じようとしなかった。金日磾の二人の子供は武帝の寵童となったが、成長するに従い、武帝の頭を抱えるような狼藉を働くようになり、長男は宮廷の女官をたぶらかすようになったので、金日磾は彼を殺した。当初武帝はそれを怒ったが、彼と話し、金日磾の誠実で忠義な人柄を改めて知った武帝は、彼を罪に問うことはなく、ますます信頼するようになった。
紀元前91年に江充・戻太子劉拠の事件が勃発した。その後紀元前88年6月に金日磾は江充の親友だった馬何羅らが、武帝を暗殺しようと企てた時にいち早く察知し、馬何羅を格闘の末に捕らえた。これにより忠節を称えられるようになった。
金日磾は、自分が漢人ではなく匈奴であったこともあって慎み深く、あくまで慎重だった。紀元前87年に武帝は亡くなった。武帝は病床に霍光、金日磾、上官桀の三人を呼び寄せ、昭帝を補佐するよう後事を託した。霍光は当初金日磾に昭帝補佐の地位を譲ろうとした。これに対して、金日磾は、「私は外国人です。そんなことをすれば漢は匈奴に軽んじられます。」といって拒否し、霍光の補佐となった。霍光は大司馬大将軍、金日磾は車騎将軍、上官桀は左将軍となった。
しかし金日磾は、昭帝が即位して1年あまり後の、紀元前86年9月に亡くなっている。彼は死ぬ直前の病気の床で列侯(秺侯)に封じられ、死後敬侯とされた。彼は死後、武帝の墳墓である茂陵の近くに埋葬された。
列侯は子の金賞が継承した。金賞および弟の金建は昭帝と年が近く、昭帝と寝起きを共にした。また、金日磾の弟金倫は黄門郎となったが早死にし、金倫の子である金安上以降になって栄えた。
後漢末金旋金禕父子は金日磾の末裔である〔『三国志』「魏志」武帝紀が引く『三輔決録』より。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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