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金春館(こんぱるかん、1913年 開業 - 1923年9月1日 焼失)は、かつて存在した日本の映画館である。東京・銀座に位置し、銀座初の洋画専門館として知られ、ブルーバード映画の上映や、ハタノ・オーケストラが楽隊に入っていたことで知られる〔ハタノ・オーケストラの実態と功績 、武石みどり、お茶の水女子大学、2010年6月25日閲覧。〕。 == 略歴・概要 == 1913年(大正2年)12月31日〔年表 、銀座コンシェルジュ、2010年6月25日閲覧。〕〔『銀座と文士たち』、武田勝彦・田中康子、明治書院、1991年 ISBN 4625480566、p.137.〕、東京府東京市京橋区加賀町17番地〔(現在の東京都中央区銀座7-4-17)で開館する〔。同館の入口は外堀通りではなく、現在のソニー通りに面していた〔『カツドウヤ紳士録』、山本嘉次郎、大日本雄辯会講談社、1951年、p.33-38.〕。 1916年(大正5年)、「銀座も組の五番」の頭であった三橋栄太郎が所有権を得る〔歴史 関東大震災 銀座を襲う! 、江波戸千枝子、銀座15番街、2010年6月25日閲覧。〕。同年、波多野福太郎率いるハタノ・オーケストラを招聘、座付きの楽隊とする〔。当時の編成はヴァイオリン、フルート、ピアノのみであった〔。ヴァイオリニストの波多野福太郎はビオラ奏者の奥山貞吉との合作で、『金春マーチ』を作曲、上映前の同曲の演奏が人気となる〔。同年11月、楽隊にチェロが加わる〔。 同年7月1日、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)の作品を播磨ユニヴァーサル商会が独占的に輸入することとなり〔『日本映画発達史 I 活動写真時代』 、田中純一郎、中公文庫、1975年12月10日 ISBN 4122002850, p.257-261.〕、ユニヴァーサルが同年1月に傘下に設立したブルーバード映画を同館で上映したところ、爆発的な人気を呼ぶ〔。森岩雄(のちに東宝の副社長)は、金春館でブルーバード映画の最新作を観て、カフェーパウリスタ(現存)でカレーライスとコーヒーを摂ることが、知識人階級の若者たちにとって「文化的生活を生きること」と同義であったと証言する〔Peter B. High, ''The Imperial Screen: Japanese Film Culture in the Fifteen Years' War 1931-1945'', ウィスコンシン大学出版部, 2003年 ISBN 0299181340, p.79.〕。当時旧制中学校の生徒であった山本嘉次郎、小林正〔、五所平之助〔『わが青春 伝記・五所平之助』、五所平之助、大空社、1998年、p.101.〕、平野威馬雄〔『カナリア戦史 日本のポップス100年の戦い』、飯塚恒雄、愛育社、1998年、p.124.〕らは、同館の常連であった。赤坂・葵館の主任弁士であった徳川夢声も、同館に通った〔。当時の弁士は小川紫明である〔。 1919年(大正8年)、前所有者から弟の三橋清松が所有権を引き継ぐ〔。同年、波多野の弟・波多野鑅次郎らとともにコントラバス、クラリネット、コルネット、トロンボーン、打楽器が加わり、楽隊は12名に拡大する〔。1920年(大正9年)ころまで、ブルーバード映画の上映は続けられた。木琴奏者の平岡養一は、同館での木琴演奏に憧れ、独学で木琴を学んだ〔よみがえる木琴 平岡養一の世界 、サントリーホール、2010年6月25日閲覧。〕。 1921年(大正10年)1月、松竹キネマが買収する〔〔。ハタノ・オーケストラは同館を離れ、横浜の花月園に移籍する〔。上映作品も松竹キネマ洋画部の買付作品に変わる。弁士には、生駒雷遊、滝田天籟、玉井旭洋、徳川夢声が迎えられた〔『松竹九十年史』、松竹、1985年、p.227.〕。 しかし、松竹の傘下になってから2年8ヵ月後の1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により金春館は焼失する。跡地には、1934年(昭和9年)に日本電報通信社(現在の電通)の本社ビル(現在の旧電通本社ビル)が建ち、現在に至る〔〔〔電通銀座ビル (日本近代建築総覧 No. 15484)、街の風景、2010年6月25日閲覧。〕。同じ銀座に松竹が開き、のちに演芸場に転換した金春映画劇場(東京都中央区銀座5-7、みゆき通りとすずらん通りの交差点北東角地に1938年開場。1945年に東京大空襲で焼失)はニュース劇場で、同館とは異なる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金春館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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