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金村 キンタロー(かねむら キンタロー、1970年8月9日〔「レスラーヒューマンストーリー第196回 金村キンタロー」、『週刊プロレス』No.1741、平成26年6月11日号(5月28日発行)、79-82頁、2014年。〕 - )は、三重県津市出身〔の男性プロレスラー。本名、金村 珩皓(かねむら こうひろ)。在日韓国人であることを公言しており、韓国名は金珩皓(キム・ヘンホ、)。身長・六尺三寸(約190cm、正式身長は178cm、体重・五十八貫(217.5kg、正式体重は112kg)。血液型B型。 以前は金村ゆきひろとしてファイトしていた。 あだ名は「理不尽小僧」。恩師である冬木弘道のあだ名「理不尽大王」にちなんでいる。また、ファン(特にハッスルの観客たち)からは「キンちゃん」、黒田哲広からは「オヤジ」と呼ばれていた。 アパッチプロレス軍興行で、味方冬樹(K-DOJO)からリングコールされる際に「伊勢湾の暴れん坊、アイ・アム・プロレスラー」と紹介される(リングアナが味方以外の場合は、この紹介はされない)。 == 経歴 == === デビュー、W★ING === 中学校時代に友人から見せられた世界オープンタッグ選手権のビデオでテリー・ファンクに魅せられ、プロレスラーを目指す〔。ラグビー部に所属していた高校時代、全日本プロレスの試合会場で入門を直訴したが、身長がないから無理と渕正信に不合格を言い渡されている〔。 高校卒業後、上京してアニマル浜口ジムへ入門。1年後に浜口から剛竜馬を紹介されて、パイオニア戦志の新弟子となる〔。1990年12月20日、パイオニア戦志の愛知・半田市民ホール大会での齋藤彰俊戦にてデビューした〔後、同団体が崩壊する前に退団。その後、剛竜馬とのトラブルを避けるために、青柳政司が主宰する空手道場の誠心会館所属扱いとなり、誠心会館の自主興行に参加した。 1991年8月7日、旗揚げされたW★INGに参戦〔。W★INGでは、参戦していたミゲル・ペレス・ジュニアらに可愛がられ、メイン戦線に出るようになる〔。1992年5月5日にはザ・グラップラーを破り、デビュー1年4か月でPNWヘビー級王座を獲得した〔。5月7日の後楽園ホール大会における初防衛戦では、スーパー・インベーダーを相手に世界で初めてのテーブルクラッシュを敢行した〔。12月18日の福島大会では、ペレス・ジュニアからWWC認定カリビアンヘビー級王座を奪取し、1993年2月には戴冠したままプエルトリコなどへの初の海外遠征を行っている〔。 エースであった徳田光輝、齋藤彰俊、ミスター・ポーゴ、松永光弘らが次々と離脱する中、最後まで団体に留まり命知らずのデスマッチを展開し、エースと目されるようになる。1993年10月に行われたスクランブル・ファイヤーデスマッチでは、邪道、外道、非道に大火傷を負わされて、長期欠場となった〔。それだけでなく邪外にはいつも惨い虐めを受けていたようで、憲法がなかったらぶっ殺すとまでインタビューで語るほどその恨みは深い(ただし、大火傷はあくまでアクシデントである)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金村キンタロー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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