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金森 可重(かなもり ありしげ/よししげ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。飛騨国高山藩2代藩主。従五位下・出雲守。 == 生涯 == 永禄元年(1558年)、美濃国の長屋景重の子として誕生。通称は喜蔵。 天正10年(1582年)、本能寺の変において織田氏の家臣・金森長近の長男が戦死したため、その養子に迎えられた。天正13年(1585年)、養父・長近と共に飛騨平定戦に活躍し、従五位下・出雲守に任官し、飛騨国増島城1万石の城主となる。後に豊臣秀吉に従い佐々成政、姉小路頼綱らを討つなど、長近の飛騨支配に貢献した。九州征伐や小田原征伐、文禄・慶長の役、会津征伐にも長近とともに従軍。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に付き、西軍の稲葉貞通が篭城する郡上八幡城を岳父・遠藤慶隆とともに攻めた(八幡城の合戦)。養父の死後には飛騨高山3万8千石を知行し、飛騨一国を領した。 また、長近と同じく茶の湯に秀で、古田重然に師事した。江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の茶道指南役を務め、吉野竹林院にて開かれた利休亡魂の茶会にも石川貞清らと共に参加している。 大坂の陣にも出兵し、小出吉英の加勢となって、樫井の戦いで西軍を撃退し、金森勢が挙げた首は152とも208ともいわれている。この戦いで東軍に参加することを拒んだため、長男の重近を廃嫡し、三男の重頼に家督を譲る。 元和元年閏6月3日(1615年)閏6月3日、58歳で伏見にて死去。法号は徳応院殿雲峰閑公。墓所は京都市北区紫野の大徳寺。大徳寺龍源院に「天正十一年九月九日喜蔵とりつき」と刻字された古銃が残されている。養父・長近所有とされたこの銃は、現存する国産火縄銃の中では最も古い部類に入る。 家督は三男・重頼が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金森可重」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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