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金森 通倫(かなもり みちとも、「つうりん」とも 安政4年8月15日(1857年10月2日) - 昭和20年(1945年)3月4日)は、日本の宗教家・牧師。別名はポール・カナモリ。晩年は湘南の嶺山に隠居、原始的な洞窟生活をして「今仙人」といわれた〔金森通倫(tsuushin_main) 〕。 政治家の石破茂は曾孫にあたる。 == 経歴 == 肥後国玉名郡(現在の熊本県玉名市)に郷士・金森繁蔵の次男として生まれた。その後、一家は、どういう理由からか分からないが、詫麻郡本山村に移り住んでいる〔。 明治4年(1871年)、日新堂に入塾。 明治9年(1876年)1月30日の夜、花岡山山上の鐘かけ松の下に洋学校の生徒35人が集まり、「奉教趣意書」を読み上げ、キリスト教精神を新しい日本に宣布することを誓い合った〔。これは「熊本バンド」と呼ばれている〔。これに加盟した人々のなかには、本山村に在住していた金森のほか、下村孝太郎などがいた〔。同年8月、熊本洋学校卒業。同年9月、同志社入学、新島襄より受洗。 明治12年(1879年)6月、同志社神学科卒。 明治13年(1880年)10月、日本組合基督教会岡山教会牧師(-1886年9月)。明治16年(1883年)6月、同志社普通学校長兼神学校長(-1884年3月)。明治17年(1884年)7月、東京番町教会牧師(-1885年4月)。明治18年(1885年)、自由党入党、『自由新聞』主筆。明治21年(1888年)、同志社長代理として同志社大学設立の募金運動を推進。 明治31年(1898年)、棄教を宣言し、2月には大蔵省嘱託となり貯蓄奨励運動を行う。大正3年(1914年)、妻の死を通して信仰を回復して、キリスト教への再入信を表明、救世軍に入隊する。 昭和2年(1927年)3月、ホーリネス教会入会、中田重治が教会をあげて協力する。東京聖書学院の名誉教授に迎えられる(-1932年3月)。『基督教三鋼領』を改定して出版し、「神・罪・救」の三綱領を説く「金森伝道」を展開。「百万人救霊運動」を提唱し、霊魂狩(たましひがり)とい言葉で会員達を鼓舞した。昭和3年(1928年)、 柏木聖書学院の名誉教授に就任する。 昭和5年(1930年)1月、渡米する。ホーリネス・リバイバルの時には日本にはいなかったが、後に運動の中心的な役割を果たす、地方教会をまわって、信徒を激励した。昭和7年(1932年)3月、娘(浜健夫の妻)が胃癌になり、神癒の祈りに没頭するが、死去する〔米田豊『中田重治傳』427ページ〕。これがきっかけになりホーリネスを脱会する。 昭和20年(1945年)3月4日、福島県郡山市で死去、墓は東京都府中市の多磨霊園にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金森通倫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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