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金沢千秋 : ウィキペディア日本語版
金沢千秋
金沢 千秋(かなざわ ちあき、明和2年(1765年)- 没年不明)は、江戸時代後期の旗本。幼名を亀松、通称は瀬兵衛。官途は従五位下大蔵少輔。父は勘定組頭や一橋家勘定奉行を務めた金沢安貞(瀬兵衛)、母は植村正直娘。妻は久世広厚娘、後妻に吉田直頼娘、久松助右衛門娘、安藤重忠娘。知行は200俵で、佐渡奉行時代はほかに役料1500俵100人扶持。
天明6年6月14日、勘定となり、のちに各地を巡検する。寛政4年(1792年)4月勘定奉行久世広民関東郡代を兼帯した時に郡代附勘定となる。のちに久世の推挙により、同年11月2日に勘定組頭格となり、寛政6年1月には、「荒地起返井免直し等改方」として関東郡代支配地を巡検した。同年12月勘定組頭に栄進した。寛政11年関東郡代が中川忠英となったのち郡代支配地を巡検した。寛政12年(1800年)、巡検使として越後国田沢(現新潟県十日町市)に逗留した時この地方の文化習俗を「越能山都登」(こしのやまつと)に著す。他に、関東や東海の地方の河川や街道の巡検記録として「川めぐり日記」がある。寛政12年11月勘定吟味役となった。文化11年(1811年)2月より佐渡奉行となる。その頃の金銀山の稼動していた間歩は、青盤間歩と鳥越間歩の二間歩のみで、10日間の鏈の代銀は銀一貫目ほどしかなかったが、雲子間歩・青柳間歩の再開発をして、失業者を雇用した。これらの費用として、役人が積立てた出目銭4000貫文を上納させてこれをあてた。文化10年には中尾間歩を開発、文化12年には清次間歩の開発量産をもって、金銀山の危機を脱するに至る。佐渡奉行時代の知行は200俵、役料1500俵100人扶持。文化13年7月24日より100俵加増となり長崎奉行となり9月に着任、文政元年(1818年)4月28日まで務め、番頭に転じた。
== 関連項目 ==

* 金沢安貞-田沼政権おいて勘定組頭を拝命し印旛沼干拓工事責任者だったが、松平定信により罷免された。
* 大田南畝-勘定吟味役時の部下

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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