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金白一 : ウィキペディア日本語版
金白一[きむ ぺくいる]

金 白一(キム・ペクイル、1917年1月30日 - 1951年3月28日)は、大韓民国軍人。本名は金燦圭(キム・チャンキュ)。創氏改名時の日本名は金澤俊南。朝鮮戦争では韓国陸軍第一軍団長。太極武功勲章授与者。息子に知事〔咸鏡北道は北朝鮮が支配しており、通常の道知事とは給与体系も異なる大韓民国大統領により任命される次官級の政務職。〕で以北五道委員会委員長(2013年現在)の金東明(キム・ドンミョン)。''、1917年1月30日 - 1951年3月28日)は、大韓民国軍人。本名は金燦圭(キム・チャンキュ)。創氏改名時の日本名金澤俊南朝鮮戦争では韓国陸軍第一軍団長。太極武功勲章授与者。息子に知事〔咸鏡北道は北朝鮮が支配しており、通常の道知事とは給与体系も異なる大韓民国大統領により任命される次官級の政務職。〕で以北五道委員会委員長(2013年現在)の金東明(キム・ドンミョン)。
== 人物 ==
1917年1月30日、移住先の中華民国吉林省延吉県で生まれる。現地の小学校を出た後、ソウルの普成中学校を卒業。再度吉林に戻り、吉林中学校卒業。1936年、奉天満州国軍官学校に入学。1937年、卒業(第5期)。卒業席次は2番か3番だった。同期に丁一権(韓国陸軍大将、国務総理)、申鉉俊(韓国海兵隊中将)など。卒業後は満州国軍に勤務、間島特設隊に配属され匪賊討伐にしばしば功績があり中隊長をつとめた。最終階級は上尉
終戦後は先代の故郷の咸鏡北道に戻ったが、共産ゲリラ討伐を行なっていた過去から身の危険を感じ、白善燁〔満州軍出身、のちに韓国陸軍大将。〕が南下する相談に訪れた際に自らもソウルに行くことを決め、崔楠根〔満州軍出身、のちに韓国陸軍中佐。〕らとともに3人で1945年12月24日に平壌を出発、12月27日に38度線を越えた。この時、アメリカ軍支配地域に向かっている途上で「赤に対抗する『白』」と「統一の『一』」から「白一」を思いついた〔。
ソウルに到着したが金白一が病気で入院したために路銀も無くなりつつあり、先に南下していた丁一権や白善燁の弟である白仁燁らの勧めから、1946年2月26日付けにて軍事英語学校〔1945年12月5日にアメリカ軍との連絡調整のため開校〕履修扱いで南朝鮮国防警備隊に入隊し、中尉任官。軍番55番。この時の入隊届けの姓名欄に金白一と書き込み、以後、金白一と名乗った〔。
任官すると直ちに裡里にて第3連隊(全羅北道を担当)の創設に従事、初代連隊長となり中佐。しかし1946年10月に金白一が結婚式を挙げたさいに、これが部隊の左派分子に利用され「軍の補給品を処分して豪華な結婚式をあげた」と連隊長排斥事件が起こった。この噂に不満を煽られた下士官兵が憤激し金白一が糾弾される騒ぎになったが、部隊の経理に問題はなく結婚式の費用の出所も明らかにされた。結果この騒ぎが原因で副連隊長に降格され宋虎聲少佐〔光復軍少将。1946年10月に任官し、直後に第三連隊長。のちに南朝鮮国防警備隊総司令官。朝鮮戦争開戦後は北朝鮮軍に協力し、捕虜となった韓国軍兵士で構成された部隊の師団長とも。のちに北朝鮮で死去。〕が第二代連隊長となった。1946年12月に宋虎聲少佐が転出すると、第三代の連隊長として復職した。1947年10月、警備士校校長。1948年7月、特別部隊司令官〔〔。
1948年10月19日に麗水・順天事件が起こると、第5旅団長代理として鎮圧作戦に従事。1949年1月15日、第6旅団長。1949年6月5日、甕津地区戦闘司令官。1949年7月1日、歩兵学校初代校長。1949年9月28日、智異山地区戦闘司令官。智異山でのゲリラ掃討に功績を挙げ、1950年1月15日、第3師団長。1950年4月22日、陸軍本部行政参謀副長〔〔。
朝鮮戦争が開戦すると、アメリカに留学中であった丁一権の代理として作戦参謀副長を兼務し、開戦直後の陸軍本部を実質的に指導した。1950年7月、咸昌地区戦闘司令官。第一軍団再編により副軍団長、ついで軍団長。釜山橋頭堡の戦いでは東正面の防御を担当。1950年10月1日、国連軍の攻勢では東海岸を北上し韓国軍で初めて38度線を突破した。中共介入により戦線が南北に移動する中、国連軍の平壌放棄が確実になると、北から南に移動する大量の難民が発生した。1950年12月には約10万人の難民を、乗船を渋るアメリカ第10軍団長エドワード・ アーモンドを金白一が強硬に説得することでアメリカ海軍の輸送艦に収容し、東海岸から巨済島まで海路避難させた興南撤収作戦を行った〔。
1951年3月27日、中共軍の4月攻勢に備えるために驪州(ヨジュ)の第8軍前進指揮所でマシュー・リッジウェイが各軍の軍団長と師団長を招集して行われた会議に出席した帰路、寧越(ヨンウォル)の陸軍本部前進指揮所で丁一権と過ごした。翌日の3月28日、江陵(カンヌン)に向かう際、悪天候のなか連絡機のパイロットが渋るのを拳銃に手をかけてまで離陸を強行させ、連絡機は太白山脈大関嶺付近の山腹に激突、死亡した。遺体はおよそ2ヶ月後の5月9日に機体とともに発見された。死後中将に追叙。太極武功勲章授与〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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