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金祉燮(ギムジソプ、김지섭、1885年 - 1928年2月20日)は、朝鮮の独立運動家、テロリスト。日本式の姓は秋岡。 == 概要 == 慶尚北道安東市生まれ。尚州市の初等学校の教員を経て金山地方法院書記、金應燮(ギムウンソプ)法律事務所尚州出張所職員を務めた。 1919年に朝鮮独立運動に加担して、1920年に中華民国に亡命、義烈団に加わり、上海·北京などで独立運動を展開した。 1924年帝国議会に出席する日本政府高官を狙撃しようと、1923年12月20日に上海を出発し31日、福岡に到着した。この時、小林貫一という人物の助けを受けたという〔김삼웅『약산 김원봉 평전』(2008年)168頁 ISBN 9788959400928〕。 1924年1月3日東京に潜入したが、帝国議会の開始が無期限延期されたという新聞記事を見て計画を変更して、皇居に爆弾を投げ込むことを計画。 1月5日に二重橋から皇居侵入を試みたが、巡査に発見され、爆弾を投げ、さらに侵入しようとしたところ、近衛兵に遭遇、爆弾をさらに2つ投げて逃走しようとした。3つの爆弾はすべて不発だったため、巡査と近衛兵に怪我はなく、その場で逮捕された(二重橋爆弾事件)〔。 裁判において、彼の弁護士布施辰治は「朝鮮民衆全体の意思を代表した人」であり、爆弾が不発だったことから無罪を主張したが、金祉燮は裁判において「(朝鮮独立運動の殉国者となれる)死刑か無罪」を主張し、検察も死刑を求刑した。裁判所は一・二審とも無期懲役を言い渡した。金は上告しないと主張したものの弁護人によって上告されたが〔京城日報「爆弾事件の金祉燮 俺は上告せぬと怒る」1925年8月19日〕、上告は棄却され無期懲役が確定した〔大阪毎日新聞「二重橋爆弾事件の金祉燮は無期懲役 外四名は六年乃至六ヶ月」 1925年8月13日夕刊〕。 1928年2月20日に市ヶ谷刑務所で服役中に死亡した。 1962年に大韓民国建国勲章大統領章を追叙された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金祉燮」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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