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金蔵主[こんぞうす] 金蔵主(こんぞうす、生年未詳 - 嘉吉3年(1443年)9月?)は後南朝初代の象徴的指導者。出自についてはよくわかっておらず、護聖院宮(後亀山天皇の弟)の孫、もしくは小倉宮(後亀山天皇の子)の子。別名「尊義王」、「中興天皇」、「空因」ともいうが、後世の系図類によるもので信ずるにたりない。 == 概要 ==
金蔵主・通蔵主の兄弟、源尊秀(=金蔵主の子・尊秀王?)、日野有光、日野資光らは室町時代の1443年(嘉吉3年)9月24日、後花園天皇の暗殺をねらい京都御所に乱入した。金蔵主らは内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛忠嗣の邸に避難した。金蔵主らと幕府側との戦闘も行われている。金蔵主らは三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もる。朝廷から追討令が出ると、数日のうちに幕府軍や協力を拒んだ山徒により鎮圧された。このときに金蔵主は討たれた。日野有光らも討たれ、一部は逮捕されて処刑・流罪、また行方不明となったものもいた。しかし後世、金蔵主は討死にせず吉野北山で崩御したという伝説もとなえられた。 金蔵主は禁闕の変において山名氏や細川氏の支援を受けていたという説がある(山名氏・細川氏の関与が疑われた記録が残っている)。 禁闕の変で奪った神器のうち、剣は清水寺で発見され北朝の元に戻るが、神爾はそのまま後南朝のもとにあった。14年後の1457年(長禄元年)、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が長禄の変で神爾を奪い返し、翌年には神爾は北朝の手に戻っている。 なお、中興天皇と称して嘉吉3年10月に即位、後南朝の初代天皇となったという説もあるが、この事は同時代史料では確認できない。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「金蔵主」の詳細全文を読む
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