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釜山市電(ぷさんしでん)では、大韓民国(韓国)の釜山直轄市(現・釜山広域市)に存在した市電(路面電車)について記す。なお、市営になったのは末期だけで、戦前から戦後しばらくは電力会社の経営であった。 == 概要 == 釜山市の市電は、元々東莱温泉への湯治客の輸送を目的として、1909年に釜山鎮から東莱温泉までの間を開業させていた軽便鉄道の釜山軌道〔『日本全国諸会社役員録. 明治43年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕を、電力・ガス会社の韓国瓦斯電気〔本社東京。会長は東京馬車鉄道社長だった牟田口元学『日本全国諸会社役員録. 明治44年』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕(後に朝鮮瓦斯電気と改称)が買収して、改軌・電化を行った事により始まった。 計画は1911年に始まり、1915年より順次営業を開始、その後は環状線の建設等もなされ、市民の足として約17.7km(11マイル)の路線網を有するに至った。開業区間は釜山府内5.5マイル、釜山鎮-東莱間5.9マイル、電動客車29両、昭和元年時の旅客人員は6,103,081人〔『帝国鉄道年鑑. 昭和3年版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1937年には朝鮮南部の電力会社が統合され、南鮮合同電気となった。 太平洋戦争後、日本人が引き上げて電車の運行は韓国人の手に移るが、おりしも資材不足と整備不良で電車の稼働率は徐々に低下した。これを都市交通の破壊と危惧した米国は、ロサンゼルスの路面電車車両が路線の一部廃止で不要となっていることを利用し、援助と言う形でそれを運び込んだ。1963年には富士車輌の電車も新規導入されている。 しかし、設備の老朽化もあって1950年代に一部の路線を廃止した。その他の路線は複線化も行うなど乗客増になっていたが、道路使用料の市への支払いが大きな負担になっていたこともあって、運営を市に移管する事になる。その後はモータリゼーションの発達に飲み込まれ、結局は1968年5月20日限りで全廃となった。同年にはソウル特別市からも路面電車が廃止され、韓国における路面電車の歴史はここに途絶えた。 全廃後、釜山市電で使用していた米国製電車一両が西区の東亜大学校九徳キャンパスに保存〔九徳運動場前から東亜大学まで(保存車両の写真あり) 〕〔釜山に残る電車1 (車体) 〕〔釜山に残る電車2 (足回り) 。脚注2~4はいずれも「釜山でお昼を」のサイトより〕されていたが、長い間一般には公開されていなかった。しかし、2009年3月の新キャンパスの完成にあわせて電車が一般公開されることになった。また東亜大学では“近代文化遺産”への指定も推進することにしている〔“(追憶の‘釜山電車’来月市民に開放) ”釜山日報2009年2月16日〕。予定よりやや遅れることの2010年12月23日から、富民キャンパスに修復された電車が一般にお披露目された〔"(追憶の釜山電車、市民の懐に) "(釜山市インターネット新聞)BUVI News 2010年12月29日13時43分配信 2011年1月10日閲覧〕〔なつかしの路面電車 .連合ニュース2011年7月20日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「釜山市電」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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