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鈴木 みのる(すずき みのる、本名〔・旧リングネーム:鈴木 実/読み同じ、1968年6月17日 - )は、日本のプロレスラー、実業家、総合格闘家。神奈川県横浜市出身。パンクラスMISSION〔、サンミュージックプロダクション所属〔鈴木みのる - サンミュージック〕。グッズ販売やイベント企画・運営を手掛ける株式会社パイルドライバー代表取締役〔会社概要 - パイルドライバー〕。 == 来歴 == === 新日本、UWF、藤原組 === 横浜高等学校時代はレスリング部に所属。国体2位という実績を残して新日本プロレスに入門。 * 1988年、飯塚孝之戦でデビュー。同年10月22日の飯塚戦で初勝利〔「鈴木みのる 風になれ 〜SUZUKI MINORU 20×2th Birthday Party〜」 P.65 - 72 「鈴木みのる 全試合記録」(2008年5月までの戦歴)〕。 * 1989年3月、アントニオ猪木と対戦〔。 * その後、UWFへ移籍し、1989年5月に田村潔司のデビュー戦の相手を務め、UWFでの初白星〔「週刊プロレス」別冊2008年冬季号「新生UWF証言集」 P.47 「新生UWF 闘いの記録」「UWF HAY HISTORY 2nd.」東京ベイNHホール〕。 * 1989年11月29日、骨折した船木誠勝の代役で東京ドーム大会「U-COSMOS」で、モーリス・スミスと異種格闘技戦で対戦したが、4ラウンドでKO負け。後に鈴木は「スミスの強さにビビって大観衆の前で泣いて自らリングに寝転がった」と語っている〔。 * 1991年3月、UWFを退団して、船木らと共にプロフェッショナルレスリング藤原組へ参加。 * 1991年4月1日、SWSと提携して行われた神戸ワールド記念ホール大会におけるアポロ菅原戦は、試合開始直後から互いに退け合うように鈴木は張り手を菅原は前蹴りを放ちまともに組み合おうとせず、その挙げ句菅原側がセメント行為を仕掛け〔「週刊プロレス」別冊2008夏季号 「鈴木みのる 風になれ 〜SUZUKI MINORU 20×2th Birthday Party〜」 P.59「神戸事件の夜、ミナミのスナックで…」(元週刊ファイト編集次長、波々伯部哲也による出筆)より〕、その行為に対して鈴木はコーナーに追い詰め頭突きを見舞い菅原はグーパンチで応戦。まともに試合が成立しないほど泥沼の様相に。レフェリーが間に入り、双方の反則に(頭突きとグーパンチ)注意を入れた所でそのジャッジに呆れた菅原がリングを降りて試合放棄した〔〔船木がかつて担当していた「プロレス格闘技DX」のコラムによれば、当日の試合後、鈴木は控え室で泣いていたという。またこの興行は、北尾光司がプロレス史上に残る「八百長野郎」事件を起こしたことでも知られている〕。 * 1992年10月、東京ドーム大会で、ソウルオリンピックのレスリング金メダリスト:ゴベリシビリ・ダビッドと対戦、裸絞めで勝利。 藤原組はカール・ゴッチを顧問として据えており、ゴッチが直接指導することもあったため、ゴッチに傾倒したのもこの時期である。アメリカ人選手がゴッチのレクチャーを受けた際、「痛い、これじゃ鈴木じゃないか」とクレームをつけると、「私が鈴木であり、鈴木が私なのだ!」と返答したこともあるなど、ゴッチもまた鈴木に大きな期待を寄せた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木みのる」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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