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鈴木悳夫[すずき のりお]
鈴木 悳夫(すずき のりお、1940年7月7日 - 2007年6月14日)は東映フライヤーズに所属したプロ野球選手(捕手)。静岡県出身。引退後は東映・日本ハム、三星ライオンズ、ロッテでコーチを務めた。 == 来歴・人物 == 清水東高校では捕手として甲子園に3度出場。2年生時の1957年に出場した夏の甲子園では、2回戦(初戦)で法政二高に敗退。この時のチームメートに一年上の漆畑勝久がいた。翌1958年の春の選抜では済々黌に、夏の甲子園では八幡浜に、いずれも1回戦で敗れる。早稲田大学に進み、1960年の早慶六連戦では代打で活躍、早大優勝の立役者であった野村徹捕手の後継として、1961年からレギュラーとなる。 1963年に東映フライヤーズ入団。東映には安藤順三、種茂雅之がおり、レギュラーは奪えなかったが、それでも現役時代は311試合にマスクをかぶっている。また打力には定評があり、代打の他に一塁手での出場もあった。1969年には種茂の不調もあり、75試合に捕手として起用されている。1971年引退。 入団後、日拓時代を除いて東映・日本ハムに在籍し、引退後は二軍コーチ(1972年, 1975年)、一軍コーチ(1974年, 1976年 - 1979年)、一軍作戦コーチ(1980年 - 1983年)、一軍投手コーチ(1984年)、一軍バッテリーコーチ(1985年 - 1987年, 1989年 - 1990年)、一軍作戦兼バッテリーコーチ(1988年)、一軍チーフ兼バッテリーコーチ(1991年 - 1992年)、一軍総合コーチに(1993年 - 1994年)を歴任。1976年6月17日の阪急戦では監督の大沢啓二が退場処分となり、監督代行を務めた。1981年の初優勝時には一軍作戦コーチを務め、大宮龍男・田村藤夫を育てた。1995年からは韓国プロ野球・三星ライオンズでコーチを務め、1996年退団。1997年からは再び日本に戻り、大学の先輩の近藤昭仁が監督を務める千葉ロッテマリーンズの一軍バッテリーコーチを務めた。退任後はフロント入りし、チーフスカウトを務めた。近年は東京都内に在住し、少年野球・ソフトボールの指導に力を入れた。その傍ら、東京中日スポーツの野球評論家を務めていた。 2007年6月14日、咽頭癌のため杉並区の病院で死去。。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木悳夫」の詳細全文を読む
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