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鈴木 武樹(すずき たけじゅ、1934年8月11日 - 1978年3月27日)はドイツ文学者・評論家。静岡県磐田市出身。 == 来歴・生涯 == 7人兄弟の長男として磐田市見附に生まれる。生家は東海道見附宿において江戸時代には茶店を営み、明治以降は学者・法律家・教育者などを輩出した家柄で、その中には青島文化教材社の創業者・青島次郎も含まれる。父親の翰(たかし)は商工省の技官であったが、戦後は故郷に戻り高校教員として勤めた後、学習塾を開いて市内の生徒たちを教えていた。翰は小学生の子供たちにナサニエル・ホーソーンの「Autobiography」などを原書で読ませるなど早期教育を施していた。磐田市立城山中学校在学中には生徒でありながら教壇に立ち、同級生を相手に授業を行なっていた。中高生時代には真空管ラジオを作ることを趣味とし、一方で同窓生たちと競い合うように文学作品を読み漁っていた。 静岡県立磐田南高等学校在学中に次第に外交官を志すようになった。1953年、東京大学文科Ⅰ類に現役合格し東京大学に進学。しかし、駒場時代にトーマス・マンの作品に触れたのをきっかけにドイツ文学に強く惹かれるようになり、進学に際して教官たちを説き伏せて文学部独文科に進学する。卒業後は研究の傍ら、生計を支えるためにJ・D・サリンジャーはじめ、さまざまな外国文学作品の翻訳を手がけた。本人が生涯に渡り取り組んだのはジャン・パウルの全集の出版だった。だがこれは本人の早逝により完成することなく中断されたが、いまだこの分野でこれだけの規模の翻訳を一人で行なった者はいない。 熱心な野球ファンでもあり、贔屓のチームは中日ドラゴンズであった。また中日の選手とも親交があった。元プロ野球選手の後藤修は高校の1年先輩である。名古屋テレビ放送専属でプロ野球中継(ビデオナイター・ゴーゴードラゴンズ)ゲスト解説をしたことがある。黒い霧事件の際にはプロ野球界の体質を糾弾する論陣を張った。1970年3月17日に行われたプロ野球健全化公聴会においてファン代表として公述人として招かれセ・リーグ会長の鈴木龍二、コミッショナー事務局長の井原宏、コミッショナー委員会の3委員の退陣を求め、鈴木龍二と激しく口論した〔日本経済新聞1970年3月18日17面「鈴木会長やめろ 公述人同士が"口ゲバ"」〕。 人気クイズ番組『クイズダービー』(TBS系列)の2代目1枠の解答者として知られていた。正解率は4割1分8厘(3勝6敗 - 4勝5敗ペース)と後に1枠レギュラーになる篠沢秀夫よりは良かったが6問目の歌詞問題が大の苦手であった。連敗記録は歴代11位の13連敗である(レギュラーで10連敗以上の記録を作ったのは鈴木武樹が初めてである)。 1977年の第11回参議院議員通常選挙では革新自由連合から全国区において出馬するも次々点で落選し、その後1978年3月27日に胃癌で急逝。享年43。戒名・武徳宝樹居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木武樹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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