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鈴木貴男 : ウィキペディア日本語版
鈴木貴男[すずき たかお]

鈴木 貴男(すずき たかお、1976年9月20日 - )は、北海道札幌市手稲区出身の男子プロテニス選手。自己最高ランキングはシングルス102位、ダブルス119位。現所属はイカイ。身長175cm、体重72kg、右利き。フォア・バックともストロークは片手打ちであるが、14歳時までは両サイド両手打ちで、それから変更したという異例の経歴を持っている。
== 略歴 ==
堀越学園高時代、インターハイで3冠(単複・団体)を達成。卒業と同時にプロに転じ、1995年の全日本室内選手権・サテライトサーキット第3戦で優勝。同年からデビス杯代表にも選出され、“ポスト松岡修造”として将来を大きく嘱望される。1996年アトランタ五輪に日本代表選手として出場。その後、1996年1997年全日本テニス選手権男子シングルスで2連覇を達成する。1998年にはチャレンジャーで3勝、ストックホルムオープンではベスト8に進出した。1999年には全豪オープンウィンブルドン全米オープンの3大会で本戦出場を果たし、全豪の1回戦では世界ランキング3位のアレックス・コレチャとフルセットにもつれこむ激戦を演じた。
その後故障で休養を余儀なくされたが、2000年にチャレンジャーで4大会連続優勝を果たす。翌2001年のデ杯では、タイパラドーン・スリチャパンを破り、日本チームの2回戦進出に貢献する。同年のAIGジャパンオープンでは、1989年全仏オープン優勝者のマイケル・チャンアメリカ)を破り、日本人として松岡修造以来13年ぶりのベスト8進出を果たした。同大会では2002年・2003年もベスト16に進出。2003年ウィンブルドンでは、日本人選手として松岡以来7年ぶりの4大大会本戦での勝ち星を挙げ、1回戦でディック・ノーマン(ベルギー)を破ったが、続く2回戦でカロル・クチェラスロバキア)に敗れた。
2004年のデ杯対インド戦では74年ぶりの勝利に貢献する。2005年全豪オープンでは、1回戦でアメリカのジャン・マイケル・ギャンビルをストレートで下し、同大会で松岡以来16年ぶりの勝利を挙げると、2回戦でも前年優勝者のロジャー・フェデラーと好試合を展開した。ダブルスでは盧彦勳台湾)とペアを組み、ユルゲン・メルツァーオーストリア)&アレクサンドル・ワスケ(ドイツ)組との3回戦まで進出した。これは1968年のオープン化(プロ解禁)以来では、日本男子としての4大大会男子ダブルス最高成績になる。同年のAIGジャパンオープンテニスでは岩渕聡とダブルスを組み、決勝でシーモン・アスペリンスウェーデン)&トッド・ペリーオーストラリア)組をストレートで破り、1970年の現行男子ツアー制度導入後、日本選手が組んだペアでは初のツアー優勝を飾った。
2006年のAIGジャパンオープンでは男子シングルス準々決勝に進出したが、当時世界ランキング1位のロジャー・フェデラーに6-4, 5-7, 6-7で敗れた。〔フェデラーが世界ランク100位以下の選手にセットを失ったのは、2005年のモンテカルロ・マスターズで当時世界ランク101位のリシャール・ガスケフランス)に敗れて以来、実に1年半ぶりの事であった。〕 この後、鈴木は世界ランキングを1078位から459位まで戻した。2007年の全日本選手権では、2連覇中だった岩渕聡、若手の添田豪を押さえ、久々の男子シングルス優勝を飾った。
デビスカップでも長く活動を続け、日本代表の全ての記録において代表歴代1位を保持している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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